2025年5月25日 主日礼拝

ローマ10:9−10

國分広士牧師

「告白」というタイトルは、本にも映画にもよくみられる。誰かの真実な告白は人の心を打つ。告白する本人にとって言えるか言えないかは大きな違い。それだけでなく、告白を受ける側にとっても、告白の言葉を聞けるか聞けないかは大きな違い。神は私たちの告白に大きな関心を持たれている。今日のテキストの9、10節には「告白」が繰り返され、強調されている。

1.告白を妨げる要因

  • 誰もが正直に「告白したい」という気持ちを持っているが、同時に「本当の自分を知られたくない」という矛盾した思いを持っている。
  • この矛盾の最初の経験者はアダムとエバ。彼らは神のご命令に背いて「善悪の知識の木の実」を食べてしまい、それまで恥ずかしいと思わなかった裸を恥じるようになり、神に呼びかけられると隠れた。神になぜ隠れるのかと問われると、裸だからと言ったが、ご命令に背いた事は告白しなかった。さらに「食べたのか」と追求されると、アダムはエバや神に責任転嫁し、エバは蛇に責任転嫁して、謝罪しなかった。
  • 自分の弱さや罪深さを正直に認めないと、真実な告白はできない。

2.信じる内容

  • 「神」とは造り主。この世界と私たちをを創られたが、人は神に背いて罪を犯している。「死者の中から」とはイエス様が十字架で死なれたことを言外に示している。神は人間の罪の裁きを主イエスに負わせ、彼は私たちの罪の身代わりに死なれた。
  • 「よみがえらせた」ことを信じるのは神が全能であることを信じ、私たちにも永遠のいのちを与えてくださることを信じることにつながる。

3.告白する内容

  • 「主と告白」とは、イエスが神であり、罪の贖い主であり、自分の人生の導き手であると認める事。単に論理として理解するだけでなく、「だから主イエスに従います」という、自身を拘束する意味が加わる。
  • これはプロポーズに似ている。好きだと思っているだけではプロポーズにはならない。他の可能性は捨て、相手を自分の本命に選び、それを相手に告げることで自分を相手に拘束させるのがプロポーズである。
  • 私たちも主イエスを信じ、それを告白しよう。心を見る神は真実な告白を喜ばれる。  

  • 告白は相手が必要。「悟り」ではない。悟りは自分の心の問題であり、相手は不要。
  • イエスが主だと悟ることも大切だが、悟ったならば、心にとどめないで、神に告白しよう。神は告白を待っておられる。