2006年~2010年の週報に掲載した「キリスト教よもやま話」です。

聖書の引用は「新改訳聖書2017」に変更してあります。

礼拝

礼拝は宗教の最も中心的な行為。誰をどう礼拝するかで色々な宗教に分かれていると言うことができる。
私たちが礼拝するのは聖書に示されたこの世界と私たちを造られた唯一の神であり、どう礼拝するのかというと、聖書に記されている通り、神に対する罪を悔い改め、救い主キリストの身代わりの死を信じる告白をし、神に聞き従うために聖書を学び、日々具体的な導きを求めて祈る。それは日曜だけの行為ではなく、生活の全領域に及ぶ生き方の変革である。

主日礼拝(しゅじつれいはい)

旧約時代の安息日礼拝は、土曜日でした。今でもユダヤ教は土曜日に礼拝をしていますが、キリスト教会は主イエスが十字架の死から復活した日曜日を「主の日」として重んじ、あえて日曜日に礼拝するようになりました。

礼拝式順について

形式を重んじるカトリックや、プロテスタントでも長い伝統のある教会では、礼拝の式順にも決まりがる。しかし、あまり伝統に縛られていないプロテスタント教会では決まりがないので、様々な式順で礼拝が行われている。

礼拝の服装

夏季は牧師も上着を着ずに講壇に立つが、礼拝における服装規定を聖書から論じることは難しい。
旧約時代の祭司には服装規定があったが、新約以後はそれを当てはめることはできない。女性は頭にかぶりものをつけるようにという教えはあり、それを実行している教会もあるが、そのケースも規定とまで言えない習慣的な事柄。
品位を失わない程度の服装であれば良いというのが一般的な考え方。

起立・着席

旧約の神殿礼拝では礼拝者は「庭」で礼拝したので起立したままか地にひざまずいて祈った。
会堂礼拝以降、着席礼拝が通常になったが、現代でもギリシャ正教は3時間起立したままの礼拝。プロテスタントでも賛美は必ず起立という教会も多い。
聖書的には起立・着席は明確に規定できないので、文化として行っている。

会衆

礼拝出席者のこと。
信仰共同体であるイスラエルでは会衆とは国籍と同じような意味で、会衆から除外されるのは市民権剥奪のような重大なことでした。
私たちは単に同好の士が集まっているのではなく、主の招きで出席が許されているお互いなのです。
互いに主の招きを喜びあいましょう。

こども祝福礼拝

日本の伝統行事の七五三がこの時期にあることから、教会でも子どもの成長を願い祈ることをテーマとした礼拝を年に一度持っています。
本当に子どもを祝福してくださる神は、神社ではなく、私たちすべてをお造りになったまことの神・イエスさまであることを伝えたいと願っています。
マルコ10:14,16
「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。」…イエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。

席上献金・月定献金・目的献金・カンパ

礼拝での席上献金は神への感謝と服従を表す献金で、使用目的はゆだねます。
月定献金も席上献金と意味は同じですが、教会員が自分で決めた金額を毎月ささげます。
使用目的を明確にした献金が「目的献金」で献金箱を別に設けたり、月定献金袋にその旨を明記したりして区別しています。
いずれも神にささげるのが献金ですが、献金とは違う一般的な意味で特定の人物や事物を支援するために募金する場合は「カンパ」という表現を用いています。

ワーシップ・ソング

ワーシップとは礼拝。礼拝に用いる歌は旧約時代から常に、伝統的な曲ばかりでなく新曲が作られてきた。
しかし新しい歌は主観的な歌詞であることが多く礼拝で用いるには抵抗も強い。
そこで、現代人の好む楽風でありつつも、聖書的な歌詞や、歌詞にあったメロディーを追求した新しい賛美が考案されている。このような新しい礼拝用の賛美の歌をワーシップ・ソングと呼ぶ。

まねきのことば

礼拝が始まるにあたって、私たちがこの礼拝に招かれていることが語られます。着席してまねきのことばを聞きましょう

前奏

前奏は心を静める時です。
主を礼拝する者は主の前にへりくだる思いで出席するべきです。前奏を聴きながら自分の心にある高慢な思いや人を裁く思いは捨て、ただこの自分が神の礼拝に招かれていることを感謝し、主からのみことばが与えられることを期待しましょう。

賛美

聖書では古代へブル民族が神に向かって発した歌声を「賛美」といい「ほめる」「感謝する」「祝福する」といった意味があります。
賛美の主題は神の無限なるご性質を告白し信頼することです。主にささげる思いをもって、兄弟姉妹と声を合わせて心から歌いましょう。

開会祈祷

「祈祷」というと呪術的なイメージを感じ、特殊な能力が必要と思う人もいるでしょうが、キリスト教における祈りは「神への語りかけ」であり、いつでも誰でも祈れますし、体裁より心からの祈りかどうかが問われます。
礼拝最初の祈りは、この礼拝と集う人々への導きを求めます。

主の祈り

イエス様が「だからこう祈りなさい。」と教えてくださった祈りのことば。
ルカ11章では「祈りを教えてください。」という弟子たちの求めに応じて語られた。礼拝の中で特定の人だけでなく会衆皆が祈るために、共通の祈りの言葉を唱和する必要から主の祈りを皆で祈るようにしている。

信仰告白

どういう思いで神を崇めるのかを表現するのが信仰告白。
当教会の礼拝では現在「使徒信条」を用いている。信仰告白が正当的であるかどうか、また一致して告白できるかどうかは非常に重要。単に皆と口裏を合わせるのではなく、ことばの意味を良く考えて、心から告白したい。

聖書朗読

聖書の朗読は、礼拝における最も中心的な内容です。個人用聖書のなかった時代においてはデボーションの役割も果たしました。説教は聖書本文の「解き明かし」ですから、神のことばそのものである聖書本文は説教より重要です。説教を聞く前に、まず聖書本文を正確に読みましょう。

交読文

聖書の詩篇は、旧約礼拝における賛美のことばで、文学的技巧を凝らした作品です。その技巧のひとつが二行詩という形態で、一行目と二行目で、意味を反復強調したり逆説したりして効果を出します。これを司会者と会衆が交互に読むことで詩を味わい、主への賛美とするのが交読文です。

とりなしの祈り

聖書が神からの言葉であるのに対し、祈りは私たちから神への言葉であり、両者で神との会話となります。
とりなしの祈りは特に人々の抱える課題を神に訴え、ふさわしい導きを求めます。会衆一同が心を合わせて祈ることで、みことばを求める思い、宣教への期待も高まるのです。

宣教

「説教」「メッセージ」などともいうが、「宣教」は聖書の「教え」を「宣べ」伝えるという趣旨を的確にあらわす名称。
宣教は神のことばである聖書の意味をわかりやすく解き明かすことがその目的。(ネヘミヤ8:8参照)
彼らが神のみおしえの書を読み、その意味を明快に示したので、民は読まれたことを理解した。ネヘミヤ 8:8

献金

私たちは主に造られた者なので、元々主のものであり、私たちの持っている物も主の物である。その信仰をあらわすのが献金。
自分の手にあるお金の一部を献げることによって、主への信頼と感謝を表現する。
金額は自由(第二コリント9:7) だが、「十分の一」が示されている。マラキ3:8-10参照。
一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。(コリント 9:7)
十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。──万軍の【主】は言われる──わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。(マラキ 3:10)

感謝の祈り

感謝の表現として献金をした後、ことばでも表現するのが「感謝の祈り」。
日頃の主の恵みをおぼえ、またこの礼拝においても恵まれたことをおぼえて祈る。
とりなしの祈り等の問題提起に対して、みことばで教えられた事を祈るなら、「あかし」の要素も加わり、より充実する。

頌栄(しょうえい)

三位一体の神に栄光を帰し、その御名をほめたたえるために作られた賛美歌。第二コリント13:13に由来。
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。(第二コリント13:13)
古代教会で三位一体を否定するアリウス派への対抗として盛んに歌われ、プロテスタント教会では次第に礼拝の始めや終わりに歌われるようになった。

日々のみことばと祈り

主日礼拝だけが礼拝ではない。主はいつでもどこにでもいてくださるのだから、私たちは日々個人的な礼拝ができる。
具体的にはみことばを読み祈ることでそれは実現する。日曜日だけでなく、日々、主を礼拝し、主をあがめて歩もう。

祝祷(しゅくとう)

礼拝の最後に会衆を送り出す祝福の祈り。民数記6:24-26、第二コリント13:13、ヘブル13:20-21などに例がある。
永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から導き出された平和の神が、あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいますように。
また、御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように。
栄光が世々限りなくイエス・キリストにありますように。アーメン。(ヘブル人への手紙 13:20-21)
聖書の規定ではないが伝統的に按手礼(あんしゅれい)を受けた教職者が行う教会が多い。当教会でも按手礼を受けた教職者がいない場合には「終祷」としている。

祈り

聖書は神からの言葉ですが、祈りは私たちから神への言葉であり、聖書と祈りの両方で神との応答となります。
祈りには個人の祈りと、交わりの祈りと、公の祈りの三種類があります。個人の祈りは自分一人で祈り、祈りの交わりは2人か3人で互いのために祈りあうことです。公の祈りは礼拝などで代表者が祈ります。三つの祈りの形態はどれも大切です。

聖書通読

聖書は内容を削っても加えてもいけない(黙22:18-19)。
特定の箇所ばかり読むのは削る事と同じなので、聖書全体を通読するのが望ましい。通読に取り組むなら必ず祝される。一日1章読めば3年半で全体が通読できる。
通読の助けとして「みことばの光」のような手引き書も発行されている。

聖書通読中断の理由

「ここまではがんばろう」と思うかぎり、人はがんばれるが、その小さな目標が達成した後が問題。聖書通読が中断しやすいのは、実は「ここまでは読もう」という中間目標が達成したときではないか。通読のスタート自体が最初の大きな目標だった人は、三日間で疲れ切ってしまうのかもしれない。聖書通読を続けるには、「中断しても再開する」という覚悟が必要。一日でもくじけた自分を赦さないという姿勢は、キリストの赦しの教えより、儒教的な潔癖主義に近い。

あかし

信徒が自分の経験を通して神の恵みを伝えること。
具体的には、どのようにしてイエス・キリストを信じたのか、また現在どのようにイエス・キリストを信じているのかを言い表す体験談。信仰が実際の生き方にもたらす祝福を語る事は神の真実を人々に示す事になるのである。

信仰告白と自己暗示の違い

マインドコントロールでよく使われる手法として、自己暗示がある。自分で自分に言い聞かせることによって、その気にさせるのである。その内容が確かなことなら励ましになるが、誤りを正しいと思い込むのは危険。自己暗示とならないよう、信仰告白においては、その信仰が本当に正しい信頼できるものなのかを何度でも確かめることが必要である。

信仰とマインドコントロールの違い

マインドコントロールとは、人間の心理状態を操作するさまざまな手法を用い、本来その人が持つはずのない思想信条を、そうだと思わせるテクニック。これを用いる新興宗教や自己啓発セミナーのような団体では、緻密なマニュアルに従って集中的に人を教育訓練する。正しい信仰はその人自身の自由な決定によらねばならない。

受洗と授洗

洗礼を受けることを指して「受洗」という言い方をよくします。
これとまぎらわしい言い方が、教会あるいは牧師が求道者に洗礼を授けるという意味で「授洗」と言う言い方です。
どちらも「じゅせん」と読むので混乱しやすいですね。

洗礼式(バプテスマ)

主イエスを自分の罪の救い主と信じた者が受ける儀式。バプテスマとも言う。
この水はまた、今あなたがたをイエス・キリストの復活を通して救うバプテスマの型なのです。バプテスマは肉の汚れを取り除くものではありません。それはむしろ、健全な良心が神に対して行う誓約です。(ペテロ第一3:21)」とあるように、「救い」自体は信仰で与えられるが、主に従うことを公に誓う意義は大きい。
方法としては、全身を水に浸す「全浸礼」と、水を頭に注ぐ「滴礼」の二種類がある。教会によってはどちらか一方の形式しか認めないところもあるが、当教会ではどちらも行う。全浸礼を原則にしているが、体調など事情がある場合は、滴礼で行い、方法は違っても意味は同等であると考えている。

献児式(けんじしき)

出エジプト13:2で主が命じた「初子は神のものとしてささげよ」という教えに基づく。親は生まれたこどもを神にささげ、さらに神から親に養育の命令を与えていただき、改めてその子を自分たちの子として神からいただくという意味の式である。親子は血縁だけでなく、神に与えられた使命によって、より固く結ばれるのである。やがて子が成長した時、親が神からの使命として自分を育てた事を知り、父母を尊敬し、神をあがめることとなる。

転入会式

教会員は自分の所属教会に教会籍がある。教会籍は教会総会での議決権などの権利・責任を生じる。しかし転居等の事情で出席教会が変わった場合、双方の教会の合意の上、教会籍を出席教会に移動させることができる。当教会では転入会志願者に対して役員会にて諮問を行い、可否を決定している。手続きとして転入会するだけでなく、親しい兄弟姉妹の交わりを築いていこう。

召天

神のみもとへと召していただくという意味で「昇天」でなく「召天」と書くようにしている。
キリストを信じて罪を赦された人は、永遠の住まいである天に入れていただく。私たちは死後の恵みより現在の祝福を求めやすいが、現在とは過ぎ去る一瞬にすぎないので、祝福も瞬間的であるのに対し、永遠の天の恵みは、永続的で完全な救いの場。本日の聖書箇所のアベルやエノクのように、真の恵みをいただく者になろう。

キリスト教葬儀

キリスト教式葬儀は、供養によって故人の魂が成仏すると考え故人を仏として拝む日本の伝統的葬儀とは異なり、いのちを造り支配する神をあがめる礼拝として行われる。
故人を崇拝するような行為は故人を偶像視することにつながるので、できるだけ避ける。神の造られたいのちだからこそ、その終わりをいたみ、遺族と悲しみを共有する。同時に、主イエスを信じる者に永遠の命があることを告白し、故人の幸いを信じゆだね、天での再会の希望を保つ。

バイブルキャンプ

近年、プロテスタント諸教会が積極的に行ってきた、泊り込みで聖書を学ぶ活動。
キャンプといっても、通常はテントやバンガローでなく「奥多摩福音の家」などの、宿泊施設を用いる。特にこどものキャンプは小グループごとに大人のリーダーがつき、生活や信仰の指導に当たる。共にリクレーション等の活動をすることで友情を築くことも大きな意義。キャンプの祝福を祈ろう。

役員会

教会総会で選ばれた執事たちと教職者とで構成され、毎月第一日曜午後に開催している。
教会が霊的・実際的に健全であるように、話し合いと決定を行う場。だが、あくまで教会総会の意志の下にあるので、重要事項は役員会だけでは決さずに総会に議案として提出する。
教会の歩みが祝福されるかどうかは役員会の状況で大きく左右されるので、祈りで支える必要がある。

教会総会

キリスト教会の政治方法としては、監督政治、長老政治、会衆政治の三種類がある。
一人の監督が絶対的権威を持つのが監督政治
複数の長老会議が最高決議機関なのが長老政治
教会員全員の教会総会が最高決議機関なのが会衆政治
当教会は会衆政治であり、教会総会は、役員会よりも重い権限を持ち、牧師もその決定には従わなくてはならない。教会員であるということは、恵みであると同時に、教会の歩みを左右する一票を持つという責任を任されていることでもある。

信徒・信徒会

神は信じる全ての人を救ってくださいます。ですから広い意味では、主イエスを信じる人はまだ洗礼を受けていなくてもすでにクリスチャンです。しかし信仰は洗礼によって正しく告白されるべきですので、当教会では洗礼を受けた人を「信者、信徒」と呼んでいます。
ただし「信徒会」は、他教会ではなく当教会の教会員が教会の歩みを話し合う場として毎月第三主日の礼拝後に開かれています。

教会学校

こどもたちの信仰育成のために毎日曜朝9:00-10:10に行っています。
小学生以下は礼拝と分級(幼稚科・下級科・上級科)。
中高生のためにはジュニアクラスが開かれています。
教職者と信徒の中からも教会で選任された教師がこの奉仕にあたり、みことばを教えています。
この働きのため、毎月教師会も開かれ、さまざまな計画や生徒のための祈りがなされています。

各会

当教会では壮年男性の「壮年会」、「婦人会」、青年男女の「青年会」を各会と呼び、毎月一回の例会を開いています。
各会がある週は、三つの部屋に分かれて昼食をいただき、昼食後に会合の時間をすごします。
交わりの機会として、また、教会内の奉仕活動を分担するための機関としても用いられています。
礼拝に集うだけでなく、各会にも参加していただくと、交わりが深まりますので、ぜひご参加ください。
壮年会は二階親子礼拝室。婦人会は一階集会室。青年会は一階小集会室です。

戒規

キリスト教会は愛によって互いを受け入れあうことを大切にしているが、愛だけに注目すると聖さが失われやすい。そこで教会を堕落から守るために執行されるのが戒規。明らかな罪の問題や、分裂を起こす者には聖餐を停止させ、それでも改善がなければ除名。しかし戒規執行後でも悔い改めは受け入れる。戒規はしすぎも全くしないのも教会を駄目にするので主の知恵が必要。

受難日夕拝

受難とは主の十字架の苦しみのことで、主自らが人類の罪の罰を受けるために選び取られた苦難の道であった。
主は木曜の夕に弟子たちに聖餐を与えられ、その晩ゲッセマネの園で逮捕され、金曜に十字架にかけられ、日曜の朝に復活された。そこで木曜夜に聖餐式をする教会もあるが、当教会は受難日の金曜夜に「受難日夕拝」を行い、その中で聖餐式をしている。

イースター(復活節)

主の復活の記念日。
クリスマスのように毎年同じ日付けではなく、「春分後の最初の満月後の最初の日曜日」なので、3月末から4月半ばの間で毎年日付が異なる。
日本においてはクリスマスがよく知られ盛大に祝われるが、キリスト教における意義としては、私たちの罪を背負って死なれた主が、死を滅ぼし救いを成就した勝利を祝うので、クリスマス以上に意義深い記念日である。ただし「イースター」の語源は異教的な春の女神の名前で、古くからの春分の祭りがキリスト教化されたという起源があることも覚えておこう。

イースターカレンダー

2000年~2010年~2020年~2030年~2040年~

2000年:4月23日
2001年:4月15日
2002年:3月31日
2003年:4月20日
2004年:4月11日
2005年:3月27日
2006年:4月16日
2007年:4月 8日
2008年:3月23日
2009年:4月12日

2010年:4月 4日
2011年:4月24日
2012年:4月 8日
2013年:3月31日
2014年:4月20日
2015年:4月 5日
2016年:3月27日
2017年:4月16日
2018年:4月 1日
2019年:4月21日

2020年:4月12日
2021年:4月 4日
2022年:4月17日
2023年:4月 9日
2024年:3月31日
2025年:4月20日
2026年:4月 5日
2027年:3月28日
2028年:4月16日
2029年:4月 1日

2030年:4月21日
2031年:4月13日
2032年:3月28日
2033年:4月17日
2034年:4月 9日
2035年:3月25日
2036年:4月13日
2037年:4月 5日
2038年:4月25日
2039年:4月10日

2040年:4月 1日
2041年:4月21日
2042年:4月 6日
2043年:3月29日
2044年:4月17日
2045年:4月 9日
2046年:3月25日
2047年:4月14日
2048年:4月 5日
2049年:4月18日

降誕

イエス・キリストの降誕日が12月25日に定められた経緯には諸説がある。

  • 336年のローマ行事を記したフィロカルスの暦
    「12月25日にキリストはユダヤのベツレヘムでお生まれになった」
  • 354年のローマの史家
    「カイザルとパウルス執政官任期中、主イエス・キリストは12月25日金曜日、新月の第15日に生まれたもうた」
  • 冬至を太陽の誕生日として祝っていた、ローマの太陽神の祭りが、キリストこそ真の太陽として、キリスト降誕の祝いとして続けられた。等。(キリスト教辞典より)

アドベント(待降節)

クリスマス前の4週間を、主の降誕を待ち望むという意味でアドベント(到来という意味)と言う。
アドベントには初臨(神であるお方がマリヤから赤子として生まれることで世に臨まれたこと)のキリストだけでなく、再臨(世の審判者として再び世に臨まれること)のキリストを待ち望むという意味もある。神はもっともふさわしい時にキリストを遣わしてくださる。恐れるのではなく、主の最善のみわざがなされることを信じ期待して、主を待ち望もう。

母の日

1908年5月10日、アメリカのウェストバージニア州に住むアンナという少女が、牧師であった夫を早くに失い苦労して娘たちを育てながら人々を助ける社会活動家としても活躍した亡き母の追悼式を教会で開き、母が好きだった白いカーネーションを参加者に手渡したのが始まり。
1914年、米国議会は5月第2日曜日を国民の祝日「母の日」と制定した。

父の日

母の日の始まった翌年の1909年にアメリカ・ワシントン州のJ.B.ドット夫人が、男手一つで自分をそだててくれた父を記念して、父の誕生月の6月に父の日礼拝をしてもらったことが由来。1972年、アメリカ国民の祝日に制定された。

中野島キリスト教会の創立

当教会の宣教活動は1951年から始まります。当時この地に住んでいたクリスチャン実業家の長谷川周治兄姉は、同盟・登戸教会で知り合ったドイツ・リーベンゼラ宣教団のオット・モジマン宣教師が住まいを探していたので、自宅を宣教師館に提供したのです。その年の十月から中野島での集会が始まり、翌1952年9月28日、第一回の洗礼式が多摩川で執り行われました。故工藤長老、故阿部すぎ姉ら、最初の教会員が与えられたこの日が、教会創立の日と定められました。

信教の自由を守る日

毎年2/11は建国記念日ですが、これは神道の建国神話に基づき、日本を建国した神々の子孫が天皇であるという天皇支配の根拠を教える日ですので、キリスト教信仰とはなじみません。また第二次世界大戦時に政府によって厳しい宗教統制がされたことを思い、あえて教会ではこの日を「信教の自由を守る日」と呼んでいます。

日本福音キリスト教会連合(JECA)

当教会の所属する教会の連合。2007年現在全国で177教会が加盟している。プロテスタントの諸教会は、信仰告白の違いや歴史的経緯によって、多くのグループに分かれているが、一致を願う思いを表現するため、15年前に信仰告白や歴史的経緯の似た4団体が合同して、JECAができた。隔年で全国総会を行っており、毎回単立教会等が新規加盟している。
詳しくはこちらを参照ください。
加盟教会リストはこちら

ウィクリフ

誰もが聖書を母語で読めるように、小数民族のことばなどに翻訳を進めている国際的な団体。
団体名の由来であるJohn Wycliffe (1320頃-1384年)は、聖書をはじめて英語に翻訳したオックスフォード大学の教授。
最初、旧約聖書はヘブル語、新約聖書はギリシャ語で書かれたので、それぞれの言語に翻訳される必要がある。古代にも多くの翻訳がなされたが、中世カトリックはラテン語訳のみの使用を命じた。その時代に英語に聖書を翻訳したため、死後カトリック教会から異端とされた。

北海道聖書学院書

北海道聖書学院は特定の教派や教団には属さず、聖書を誤りのない神のことばであると信じる、聖書の福音的理解に立つ諸団体や諸教会と協力し、働き人の訓練と教育を行っています。
現在までに、約130名が卒業し、日本全国また世界中で、主のわざに励んでいます。
開校当初は、中国奥地で伝道していた、ハドソン・テーラーで有名な「国際福音宣教会」(OMF)の援助で運営されていましたが、その後、日本の諸教会の祈りと献金によって支えられるようになりました。
北海道聖書学院のホームページ

国際ギデオン協会

1899年設立。世界の181カ国において、聖書の配布・贈呈のためにクリスチャン・ビジネスマン及び専門職業人で組織された協会。→公式サイト
創立以来12億9000万冊をこえる旧新約聖書並びに新約聖書を、ホテル、旅館、病院、刑務所等に配布し、兵士(自衛官)、警察官、学生・生徒、ナース等に贈呈してきた。日本では1950年より3,200万冊以上を贈呈してきた。

奥多摩福音の家

1951年から開拓伝道をはじめたリーベンゼラミッションは救われた信徒の信仰成長、研鑚、交わりの場が必要との考えから、1965年、小河内ダム建設の際、管理者の宿舎および資材の保管場所だった施設を利用し、「奥多摩福音の家」を設けました。それ以来、信徒の信仰を養う聖会や若者や子どもたちへの宣教のためのキャンプが毎年行われています。
公式サイト

みことばの光

聖書同盟が発行する、聖書通読のための手引書
一部380円で毎月発行。内容はその日の通読聖書箇所についての解説や、勧め、応答の祈り。コンパクトだが聖書理解を深めるため、日々の聖書通読が励まされるためには安価で有効な手段なので、お薦め。

進化論と創造の記事

ダーウィンの生物進化論が広まって以来、聖書の創造の記事と矛盾するのではという疑問が生じ、キリスト者の中でもさまざまな解釈が行われてきた。
代表例は、
 A.生物進化を全面否定 
 B.「種類に従って」という記述から、生物種を超える進化を否定 
 C.進化という手段で種類を創造した:進化論と聖書を両方とも認める。 
米国では現在もA,Bの立場が強いが、最近、Cを唱える有力な学者も登場している。(「ゲノムと聖書」コリンズ著)

祈りの形式について

カトリックは祈祷文を用いるが、プロテスタントは自由なことばで祈る。(主の祈りのみ祈祷文として用いる)
それでも祈る時には次の四つのポイントを大切にしている。
①主への呼びかけ。「天のお父様」「父なる神様」「主よ」など。
②賛美、感謝、告白、願いなどを自分のことばで語る。
③主の名によって。最後に「イエス様の名前によって祈ります」と言い、
④「アーメン」と自身も心をあわせる者も応じる。(同意を表すヘブル語。)

聖書を調べる

現代と違い、1世紀の人々が聖書を調べるのは手間がかかった。まず、書物が高価で個人で聖書を持てないので、会堂に集まらなければならない。次に巻物は読みたい箇所を開くのに時間がかかる。また、章節の番号もついていなかったので、めざす箇所を特定するのには前後をよく読まないと「ここに書いてある」と言うことができない。真の熱意がなければ、それだけの努力を傾けることはできないだろう。

詩「サムエル。サムエル」

眠る少年のかたわらに立つお方がいる。
少年を見るそのまなざしには、 彼に寄せる愛と期待が満ちている。
この少年はイスラエルを救う者となるのだ。
それは長く険しい道のりだが、 少年が必ずやり遂げることを、 このお方は知っておられる。
『わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ。』
そうだ、少年は尊いことに用いられる器なのだ。
この乱れた世にあって、純粋な信仰を持つ、 彼のような人物のかたわらに、このお方はいつも立っておられる。
『サムエル、サムエル。』 目覚めよ、少年。 起きよ、主の戦士!
この困難な時代は、君の手によって切り開かれていくのだ。
(國分広士作 1986年)

宗教多元論

どの宗教にも価値があるので、宗教同士は互いを否定するのではなく、共通のよい目的を実現するために協調するべきだという考え。宗教間の争いが激化している現代、このような主張が強くなされている。平和を求める点ではこの意見を評価するべきだが、他宗教の価値を認めることは、キリストだけが真の救いを与えるという信仰を危うくするので、非常に注意を払わなくてはならない。実は宗教多元論を後押ししているのは、無神論的な哲学でることを見落としてはならない。

異端

キリスト教のような装いをしながら、正統的キリスト教信仰からはずれた宗教を異端と言う。
初期キリスト教会でも多くの異端が現れては消えていったたが、今日も多くの異端が活発。最もその活動がよく知られているのは「ものみの塔(エホバの証人)」。彼らは聖書を学ぶときに必ずものみの塔の指導書を一緒に開き、聖書だけから学ぶことが禁じられている。

教会論

聖書は様々な疑問に答える必要から教科書として作り上げた書物ではないので、「教会とは何か」という問いに答えるような項目が用意されているわけではない。それで、聖書全体を学び直し、教会について教えられている事を体系的にまとめる神学が「教会論」。しかし人によって聖書をどのような視点で見るのかは異なり、教会理解の差が出てしまうのも神学の限界である。