2025年4月13日 主日礼拝

ルカの福音書22:47-71

國分広士牧師

  • 芸能人が逮捕されたニュースを聞くと、どんな状況だったのか知りたくなる。
  • では、主イエスの逮捕の時は、どんな状況だったのだろうか?
  • その時、主イエスはご自分の前にいる人に、どのような態度を示されたのだろうか?

1.ユダに

  • 口づけは愛情表現のはずだが、ユダは捕縛する対象を間違えないために口づけした。彼は金のためにイエスを捨てたのである。「裏切り」だけで深い罪だが、「口づけ」というおまけによって、ユダの冷酷さが強調された。罪は自分のために他者を捨てる。
  • 主イエスはユダに「ユダ、あなたは口づけで人の子を裏切るのか。」と言われた。ユダに罪を自覚させようとされたのだろう。素直に悔い改めれば、彼にも救いのチャンスは与えられていたのだ。

2.ペテロに

  • 主イエスはペテロに、主を知らないと三度言うので、信仰がなくならないように祈ったと告げていた。(31-34節)そしてそのとおりになった。
  • ペテロは「遠く離れてついていった」。自分の素性がわからないようにしていたのだ。それなのに、イエスの弟子だと知られそうになり、おもわず嘘をついた。こうしたとっさの嘘には、その人の本性が現れる。ペテロはイエスよりも自分が大切だったのだ。自分を守るためには、大切なイエスさえ見捨てる。それがペテロの本性だった。
  • 主イエスはふりむいてペテロを見つめた。ちらりと見たのではなく、しっかりと見たのは、「全部聞いた」という意思表示。ペテロは自分の本性が主に知られたことを悟る。彼は泣いて自分の罪を後悔した。
  • しかし自殺したユダと違い、ペテロは仲間のもとに戻った。自分の裁きを主に委ねる姿勢を感じる。主のまなざしによって、信仰がなくならないように祈ったという主のことばも思い出したのだろう。

3.祭司長たちに

  • 冒涜するものにはお答えにならなかった主イエスは、「おまえはキリストなのか?」「神の子なのか?」といった祭司長たちの質問には、「今から後、人の子は力ある神の右の座に着きます。」「わたしはそれです。」と明言された。彼らが信じないとわかりつつ、神の子を捨てるのかと逆に問われたのである。彼らにも悔い改めの機会は与えられていたのである。
  • このことばを神への冒涜だと祭司長たちは断罪した。イエスはキリストではない、神の子ではないと考え、彼を捨てたのだ。
  • 罪の本質は神に背くこと。神の御子を捨てたという点では、ユダもペテロも祭司長たちも同じ。自分が一番大事だから神を捨ててしまうのだ。

  • 主イエスは、自分を捨てる者たちに、悔い改めの機会を与えておられた。特に、ペテロを見つめたまなざしには、罪を自覚させようとする主の思いがにじんでいる。
  • 主は強制力で罪を犯させないようにすることもできるが、何をするのかはその人自身に選ばせる。自発的に行う善にこそ、価値があるからである。たとえ罪を犯す結果となったとしても、主はただちに見捨てはしない。振り向いて見つめて、「それでいいのか?これからどうするのか?」と問いかけてくださる。
  • 私たちも、主に見つめられている。悔い改めて主に従おう。