2025年4月20日 イースター礼拝

ルカ24:1-48

國分広士牧師

  • カトリックの十字架には苦しむイエス像がついている。しかし私たちプロテスタントは十字架にイエス像をつけない。主は復活したので、もう苦しんではおられないから。「主の復活」は主の死を前提としているので、まさにキリスト教信仰の核心。それだけに、これを信じるか否かは大きな違いを生む。初代キリスト者がどう信じたのかを学ぼう。

1.主のことばを思い出す(1-12)

  • 弟子の女たちは、墓で御使いたちに「どうして?」と言われた。彼女たちは思い違いをしていたのだ。イエスは死んだので、遺体しかないと思い込んでいたのだ。「生きている方を死人の中で捜す」のは愚かなことなのだ。
  • 彼女たちは、受難前にイエス自身から、死と復活の預言を聞いていた。しかし、信じていなかった。聞いた話のうち、自分の気に入った部分だけを受け入れ、気に入らなかったり理解ができない部分は無視していたのだ。そうした聞き方は私たちもしやすいので注意が必要。いつのまにか心の中で自己流のキリスト教を作り上げてしまう。異端的な信仰に陥る危険性は、誰にでもあるのだ。
  • 御使いは「主がお話しになったことを思い出しなさい」と語った。良い教えを受けても、忘れているなら意味を発揮しない。真理は繰り返し思い出すことで、理解が深められ、私たちに歩むべき道をその都度教え示す。
  • 彼女たちが思い出したのは偶然ではない。神の助けで思い出させていただいたのだ。主の助けで、復活を信じるように導かれたのだ。彼女たちは仲間にあかしをした。

2.主のことばで心が燃えた(13-35)

  • 二人の弟子たちがエマオに向かう目的は不明だが、あわててエルサレムに戻る結果から考えると、弟子集団から距離を置こうとしたのだと思われる。仲間から離れていく者たちに、主イエスご自身が近づいて引き止めてくださったのだ。
  • 彼らの目は遮られてイエスだとわからない。思い込みが強いと、私たちは事実を曲界して解釈してしまう。彼らも自己流の信仰に陥っていたのだ。
  • 主イエスの一方的なあわれみによって、弟子たちは主のことばをもう一度よく聞くことができた。そして心が燃えた。この教えを語る方を信じたのだ。
  • ついに目が開かれ、語っているのは主イエスだと分かった時、姿が見えなくなった。彼らは自分自身の判断で弟子たちの元に戻ることを決断した。自分で決めることを重んじたので、決断の時には姿を消されたのだろう。二人は仲間たちにあかしをした。

3.心を開いて主のことばを聞く(36-48)

  • 女たちのあかしを「たわごと」と思った弟子たちも、次々と主の復活を目撃した弟子たちの話を聞いて混乱した。思い込みから解放され、真理を受け入れる前には、動揺したり混乱したりする段階がある。その段階を利用して、強制力で信じさせるのがマインドコントロール。私たちの信仰はマインドコントロールであってはならないが、信じる前の動揺期があるのは必然。動揺する人は丁寧に扱い、正しい受け止め方ができるように助けよう。
  • そこに主イエスが姿を現されるが、弟子たちは幽霊だと思う。そう思った方が、自分自身がすでに持っている前提とあうから。思い込みと正しい信仰のせめぎあい。主イエスは丁寧に、ご自分が生きていることを示された。
  • さらに主イエスは「聖書を悟らせるために彼らの心を開いて」語られた。心が閉じていれば事実を受け入れず、曲界して自分流の受け止め方に陥る。私たちも福音を伝えるには、心を開いていただく努力が必要である。そうやって心から信じてから、弟子たちは福音宣教に派遣された。

  • 弟子たちの宣教の主題は「主の復活」である。死に打ち勝った主イエスこそ私たちの望みである。心を開いていただき、教えを思い出させていただき、心を燃やしていただこう。そうやって心から信じて、主を宣べ伝える者にさせていただきたい。