2025年1月26日 主日礼拝
序
十字架はキリスト教会の印であり、アクセサリーにも使われるが、元々は死刑の道具であり、ローマ時代は「最も恐ろしいもの」というイメージだった。なのに良いイメージになったのはなぜだろうか。イエス・キリスト自身の十字架の場面を学んでみよう。
1.十字架刑とはどういうものか
- 十字架刑は最も恐ろしい死刑と言われる。まず処刑される人は横倒しの十字架の木に横たわらせられ、両手をピンと伸ばされ犬釘で釘付けにされる。さらに両足を引き伸ばされ、釘付けにされる。この釘打ちだけでも激痛。その状態で垂直に起こされると、全体重が釘部分に集中するので、さらなる激痛。釘を打つ時に太い血管は避けるので、出血多量で死ぬことはなく、苦しみは長引く。体重で体が少しづつ下がり胸が圧迫され、息が苦しくなるので、痛む両足に力を込めて体を持ち上げて息をつく。やがて肩の関節や肘の関節が脱臼して腕は元の倍の長さになる。ついに体力が尽きて体を持ち上げられなくなり、窒息死する。それまで何時間も、体力があれば何日も、十字架上でのたうちまわって死ぬ。
- 処刑される人は極限状態に置かれる。人は極限状態ではむきだしの本音が出る。主イエスの隣の犯罪人はイエスをののしったが、苦し紛れにあらゆるものに罵声をあびせたついでにイエスも嘲ったのだろう。最初は二人ともイエスを罵った。(イエスと一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。マタイ27:44)
2.神を恐れた犯罪人
- ところが途中で、一人の犯罪人が主イエスを嘲るもう一人の犯罪人に、「お前は神を恐れないのか」とたしなめる言葉を発した。彼らは強盗であり、十字架に掛けられるほどの重犯罪を犯したのだから、今更「神を恐れないのか」と言うのはなぜなのだろうか?また、つい先ほどは彼自身もイエスを罵ったのに、態度を変えたのはなぜだろうか?
- 謎を解く鍵は、彼がイエスのすぐ隣にいて、イエスを観察する機会があったということ。処刑の現場責任者で、十字架上のイエスを観察した百人隊長は、イエスについて「本当にこの方は正しい人であった」(47)と語った。犯罪人も最初は嘲ったが、隣にいるイエスの態度や言葉に感銘を受け、態度が変わったのではないだろうか。イエスは人を罵ったりせず、母や弟子に優しい言葉を掛けた。父なる神には叫んだ。叫ぶ相手は人間でなく神だったのだ。本音しか言えない状態のはず。イエスの本音は神を愛し、人を愛する思いだったということ。そうした聖い人の前に出ると、自分の薄汚さが恥ずかしくなるのだ。
- 彼がイエスの真実さに気づいてから、もう一人の犯罪人がイエスを嘲るので、「いけない」と思い、思わず口を挟んだのではないだろうか。彼は「おれたちは自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ」と語る。罪を自覚し反省しているのだ。自分の受ける苦しみを当たり前と思う謙虚さは素晴らしい。
3.パラダイスに行く望み
- イエスに「思い出してください」と懇願したのは、イエスは神の御子なので天国に行き、自分は地獄行きだと思っていたからだろう。自分の罪を認め、イエスを信じる思いが現れている。パラダイスとは天国のこと。イエスは彼に、「さっきは自分を嘲ったくせに」と蒸し返して拒絶せず、一緒に天国に行こうと優しく告げてくださったのだ。
- 天国に行く望みは、人間にとって最善の望み。天国は永遠であり、最も素晴らしいところ。それに対して、地上はいつまでもは居れないし、いつかは滅びるところなのだから。
結
かくして十字架は、罪を処刑する恐ろしい存在であると同時に、天国という救いを示す、希望の印ともなったのである。天国に行く望みは、罪を認め、イエス様を信じることで与えられる。私たちも自分の罪を素直に認め、イエス様を、人を天国に入れてくださる救い主だと信じよう。主イエスは必ず信じる者を救われる。
「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。(ローマ10:13)