2024年7月21日 主日礼拝

イザヤ書54章7-8節

國分広士牧師

 言うまでもないことだが、54章は53章の続き。53章では私たちの咎のために身代わりに罰を受ける主イエスの姿が預言されていた。続く54章は、主イエスによって贖われた側の姿が語られている。主イエスを信じる者にとって、自分自身の姿がここに描かれている。

1.ほんの少しの間、見捨てた

  • 主が「贖い」をなされたのは、贖うべき罪があったということ。主は罪を徹底的に憎む。日々罪を犯している私たちは、神がどれほど罪を嫌うのかを見落としやすい。自分の基準で「この程度なら」と甘く考えやすい。
  • 主は罪を捨てないイスラエルを怒り、一時的に見捨てた。偶像崇拝に陥った北王国は滅び、南王国も悔い改めなければ滅びる。そのあとに回復があるので、罪を反省させるための罰なのだが、罰を受ける本人にとっては、死ぬほどつらい経験である。決して人ごとではない。
  • こどもたちの様子を見ていると、親や教師への反抗心のゆえに、自分が悪いと思いつつも素直に謝れない姿を見ることがある。謝ったら負けだと思い、わがままを通そうとする。しかしわがままが通用すれば、もっと大きな問題を生む。

2.永遠の真実の愛をもって、あわれむ

  • 「しばらく」と「永遠」が対比されている。苦しみを味わっている側にとっては永遠とも思える長い苦しみも、本当に永遠に祝福される方にとっては「しばらく」にすぎない。
  • 主の「あわれみ」の心は、苦しみを与えている間も変わらない。主は愛するものを真に祝福するために、あわれみの心を抑えて、罪を悔い改めさせるために苦しみを与える。
  • 主は苦しめた後に、散らした民をあわれんで集める。季節の移り変わりのような時期の問題ではない。主は意図をもって事を行っている。怒り裁くことにも意味があるが、最終的な意図は「永遠の真実の愛をもってあわれむ」こと。

3.あたたを贖う方、主は言われる。

  • 主は贖う方。贖いには、主への信仰と悔い改めが伴う。
  • いくら苦しい目にあっても、結局、人の悪は変わらないように見える。愛の乏しい私たちの目には、希望はなかなか見出せない。しかし、永遠の真実な愛を持つ主は、悔い改めが実現することを信じておられる。
  • 私たちより真実な主の愛を信じよう。