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2024年7月14日 主日礼拝
1.イエスは神に罰せられたと思った
- 「彼」とは主イエス
- ユダヤ人たちは主イエスを信じなかったので、神を冒涜したと思った。冒涜罪で死刑になったのだと思った。
- イエスを悪人とは思わない人たちも、イエスをキリストと思わないなら、その死の価値がわからず、無駄死にしたと勘違いしている。
- 主イエスの死の意味をよく理解したい。
2.主イエスは私たちの咎のために砕かれた
- いけにえは「身代わりの死」。主イエスの死は身代わりの死だった。
- 通常のいけにえは羊を殺す。傷のない良い羊を選んでささげるが、それは罪のない者が、罪ある者の身代わりとなることを象徴していた。罪のない人が身代わりになることで、罪人たちの咎が贖われる。
- 全ての人間は罪人。「義人はいない」と記されている。それでは、人々の身代わりとなれる人などいない。それで、神はご自分できよい人間になり、身代わりに死なれることにした。それが主イエスの十字架。
- 全ての人の罪を代わりに背負うので、主イエスは汚わらしい極悪人として裁かれた。人類史上、最悪の死刑と言われる十字架刑になったのだ。十字架刑はローマ時代の極悪刑。これ以上にない苦しみを人にもたらす。どんな思い罪を犯した人の身代わりにもなれるように、最悪の死刑を神は選ばれた。
3.主なる神は自分勝手な私たちの咎をイエスに負わせた
- 神の思いを知らない人間は、自分勝手に生きている。ならば、勝手に滅びるに任せることもできたのに、神は人を愛し、救い主イエスを世に与え、彼に全ての咎を負わせた。
- 神の愛は私たちの思いを超える。なのに私たちは感謝せずに文句を言う。「神が愛ならなんとかしろ」と。神は本当に愛情深いので、わがままな人間の罪を、頼まれもしないのに贖われた。
- ローマ5:8 を開こう。
- しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。
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