2024年7月14日 主日礼拝

イザヤ書53章4-6節

國分広士牧師

1.イエスは神に罰せられたと思った

  • 「彼」とは主イエス
  • ユダヤ人たちは主イエスを信じなかったので、神を冒涜したと思った。冒涜罪で死刑になったのだと思った。
  • イエスを悪人とは思わない人たちも、イエスをキリストと思わないなら、その死の価値がわからず、無駄死にしたと勘違いしている。
  • 主イエスの死の意味をよく理解したい。

2.主イエスは私たちの咎のために砕かれた

  • いけにえは「身代わりの死」。主イエスの死は身代わりの死だった。
  • 通常のいけにえは羊を殺す。傷のない良い羊を選んでささげるが、それは罪のない者が、罪ある者の身代わりとなることを象徴していた。罪のない人が身代わりになることで、罪人たちの咎が贖われる。
  • 全ての人間は罪人。「義人はいない」と記されている。それでは、人々の身代わりとなれる人などいない。それで、神はご自分できよい人間になり、身代わりに死なれることにした。それが主イエスの十字架。
  • 全ての人の罪を代わりに背負うので、主イエスは汚わらしい極悪人として裁かれた。人類史上、最悪の死刑と言われる十字架刑になったのだ。十字架刑はローマ時代の極悪刑。これ以上にない苦しみを人にもたらす。どんな思い罪を犯した人の身代わりにもなれるように、最悪の死刑を神は選ばれた。 

3.主なる神は自分勝手な私たちの咎をイエスに負わせた

  • 神の思いを知らない人間は、自分勝手に生きている。ならば、勝手に滅びるに任せることもできたのに、神は人を愛し、救い主イエスを世に与え、彼に全ての咎を負わせた。
  • 神の愛は私たちの思いを超える。なのに私たちは感謝せずに文句を言う。「神が愛ならなんとかしろ」と。神は本当に愛情深いので、わがままな人間の罪を、頼まれもしないのに贖われた。
  • ローマ5:8 を開こう。
  • しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。