2024年5月12日 主日礼拝

イザヤ書47:10-15

國分広士牧師

  • 47章はバビロンへの宣告。バビロンはまだ発展途上で、エレミヤの時代に世界を支配する強大国となる。イザヤはやがてユダを滅ぼし高慢に陥るバビロンの滅亡を、そうなるずっと前に宣告する。
  • 奇跡を信じない人は、イザヤ書の執筆年代をバビロン滅亡後と考え、出来事が起きる前に予告されていたかのように書かれたと解釈する。しかしそれではイザヤ夏を読んでも歴史を支配する神への信仰は生まれない。うがった見方ではなく聖書は素直に読みたい。

1.「私だけは特別」という思い上がり

  • 「私を見ている者はいない」「私だけは特別だ」といった、バビロンの高慢は、私たちにも共通する問題。一人だけになった時こそ、人は本性を表す。また、他人を裁くのと同じ基準で自分自身を裁かない。自分だけの特別ルールを持っている。
  • 「呪文」ではなくとも、自分なりの問題解決法などはあるだろう。しかし、どんな問題解決法も、主のさばきの前には通用しない。

2.助言が多すぎて疲れている

  • 多くの知恵の言葉を私たちは聞く。しかし助言が多すぎて、かえって混乱している。聞いても仕方のない情報も多い。誤った情報も多い。取捨選択する努力は決して楽ではない。
  • 肝心なのは、救いに至る教えなのかどうか。教える人自身が救われていないなら、その助言は、真の救いへと導けない。

3.救えるのは、贖い主

  • 罪が人に滅びをもたらす。罪の解決なしには救いはない。そして救いは、単なる理屈ではなく、罪の贖いの行為によってもたらされる。
  • 4節に「あなたを贖う方、その名は万軍の主」とある。救えるのは、贖い主。私たちの罪を贖うために、主はひとり子イエス様を犠牲にされる。実際に人間として生まれ人生を歩んだ方の、いのちで贖われる。

  • バビロンが滅びる前に主は宣告された。私たちも手遅れになる前に、悔い改め、主の救いをいただこう。