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2024年5月5日 主日礼拝
序
- 1節の「ベル」「ネボ」はバビロンの偶像神。一世を風靡するバビロンも、結局ペルシャに征服される。バビロンの人々に熱心に崇められた偶像神も、戦利品として運び去られるという預言。真により頼むべきお方は誰なのかが問われる。
1.運ばれている私たち
- 私たちは「胎内にいたとき」から運ばれていた。その時は母体によって。胎児は自分で自分を守れない。いのちは与えられるもの。私たちは受け身の存在。
- 生まれた後も受け身。自分で自分の心臓や胃袋を動かしている人はいない。無意識のうちに生かされている。私たちを運んでいる方がおられる。
2.運ばれる偶像
- 偶像は、自分では動けないので運んであげなければならない。人々は物にすぎない偶像を信じ崇めているが、答えも救いもない(7節)。
- なのになぜ今でも偶像が崇められるのか?偶像の背後には神話がある。神話は人間の作ったバーチャルリアリティーな世界観。空想で心を満たそうとするのは、神より自分を信じるということ。つきつめれば人間崇拝。そういう意味では、神より科学を信じる科学信仰も、偶像崇拝の一種。
- 科学は変遷している。今もジェームズウェッブ宇宙望遠鏡によって、従来の宇宙観では説明できない新発見があるたびに、科学的見解自体が変化する。古い偶像が運び去られ、新しい偶像に置き換わるのとよく似ている。最新説もすぐに古びてしまい、さらに新しい説に置き換わるだけだろう。
3.背負ってくださる方
- 変わらないのは、私たちを造られた神の愛。私たちを一人一人造り、新生児の母親のように、私たちを愛し、年をとって白髪になっても背負うと言われる。
- 8説では「背く者たちよ、心に思い返せ」12節では「わたしに聞け。頑なな者たちよ」と呼びかけられている。背く者のことも心配しておられる。主は従う者だけを愛するのではなく、逆らう者の心臓も動かし守っておられる。
- 神は背負って救い出す。今の必要だけではない。やがて最後の裁きが行われる時に、私たちの罪を十字架で贖われた故に、私たちの罪の裁きを赦し、永遠のいのちを与えてくださる。
結
- 背負ってくださる方に感謝し、自発的に主のことばに従おう。
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