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2024年3月17日 主日礼拝
1.誰を嘆くのか
- 42章の2-3節はキリスト預言として有名。「彼は叫ばず、言い争わず、傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく」ということばは、イエス様のお姿を思わせる。
- しかし、18-20節の主の嘆きの言葉は悩む。嘆きの対象は、偶像を拝む異邦人ではない。「わたしのしもべ」「わたしが送る使者」「わたしと和解した者」「主のしもべ」すなわち、主を信じ従っているはずの、主の民イスラエルである。
- 主の民イスラエルを、主は嘆く。なぜか。私たちも信仰のイスラエルである。主は私たちも嘆かれているのだろうか。
2.何を嘆くのか
- 「耳の聞こえない者」「目の見えない者」とは、肉体的な問題を語っているのではない。20節には「あなたは多くを見ながら、心を留めない。耳が開いているのに、聞こうとしない。」とある。心の状態の問題である。
- 「使者」は主人の命令のことばを聞き、その実現のために派遣される。もし使者が主人のことばどおりでなく、自分の考えを語り、自分の考えで行動するなら、主人の期待通りの結果にはならない。
- アダムとエバを思い起こそう。彼らは主のことばを聞いていた。しかし神を疑い蛇を信じた。しかも、罪で恥ずかしくなっても、隠れ、言い訳し、悔い改めなかった。それでも神は和解しようとしてくださる。その場で裁いて死刑にもできたが、減刑して追放刑とした。しかも皮の衣を着せて、彼らの恥ずかしさを覆ってくださった。さらにその後も、人に呼びかけ続けられた。
- アダムとエバは人類の先祖であり、人間すべてを代表している存在。彼らの姿は私の姿である。私たちにも罪の誘惑がある。私たちも神のことばを信じるかどうかが試される。アダムはエバを止めるべきだったが、私たちは自分や他の人々の罪を食い止めようとしているだろうか。わかっているけどやめられない罪はないだろうか。罪深さを言い訳して、正当化していないだろうか。
3.主の望み
- 主の望みは、21節「主はご自分の義のために望まれた。みおしえを広め、これを輝かすことを。」この望みは変わらない。
- みおしえを広めるために、主は弟子を派遣する。弟子にとっての真の問題は、師のことばを伝え、師の教えを行いで示しているのかということ。
- 主イエスを裏切ったユダのようになってはいけない。彼は裏切ったことも残念だが、それ以上に、悔い改めないで自殺したことが嘆かわしい。主イエスを否認したペテロが悔い改めて、弟子のリーダーとして歩んだことと対象的。主は罪人が滅びることを望んではいない。救われることを望んでいる。
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