2023年8月6日 主日礼拝

イザヤ書 19章25節
國分広士牧師

1.その日

  • イザヤ書は「その日」ということばが多く用いられている。19章後半だけで5回も繰り返される。(16、18、19、23、24)繰り返し使われる言葉は強調表現であり、その文脈において読者に強く訴えるポイントを示している。
  • ここでの「その日」とは、エジプトに対する主による裁きが行われる日。16節の「その日」、エジプトは弱くなり主の御手の前に恐れおののく。
  • しかし18節の「その日」、エジプトの中に主に誓いを立てる五つの町が起こる。
  • さらに19節の「その日」、エジプトは主を礼拝する祭壇を建てる。そうして主に叫ぶので、主は彼らに救い主を送る。(20節)この一連の出来事を、22節では「主はエジプト人を打ち、打って彼らを癒される。」とまとめている。
  • さらに23節の「その日」、エジプトと仇敵のアッシリアが和解して、交流するようになり、両者とも主に仕える。
  • そして24節の「その日」、イスラエルは大国エジプトとアッシリアに並ぶ第三のものとなり祝福を受ける。
  • これらの「その日」は、主の裁きが実現する日という意味では、繋がっている一連の出来事なのだが、全てが同じタイミングではないようだ。「その日」が最も当てはまるのは主の再臨の日。

2.主の祝福

  • イザヤの時代、アッシリアは敵国。エジプトも、いつ襲いかかってくるかわからない信用できない相手。そうした憎しみの対象と思える両大国を、主がイスラエルとともに祝福されるというのは、なぜなのだろうか。
  • 主は「打って癒される」。そのやり方はイスラエルに対してもエジプトに対しても同じ。主は打って滅ぼしたいのではなく、打たれたことで反省し、罪を悔い改めて主に従うことを望んでおられるのだ。その思いは、誰に対しても同じ。
  • イスラエルだけが主の関心の的なのではない。全ての人がアダムの子孫であり、ノアの子孫。イスラエルは救い主を生れさせ、また主の御心を教える聖書を書かせるために選ばれた民だが、主は選民だけを愛するのではない。選民に属していても主に背くならいつでも捨てられるし、選民以外でも、主を求める者は、皆救われる。
  • 25節で主はエジプトを「わたしの民」と呼び、アッシリアは「わたしの手で造った」と言われる。イスラエルは「ゆずりの民」すなわち主の契約を受け継ぐ民だが、三者とも主は祝福される。
  • 主は全ての人を愛しておられる。ある者を苦しめることもあるけれど、それは自分たちの誤りに気付き、真の神に立ち返らせるための苦しみなのだ。
  • このような豊かな愛を持つお方が、私たちの主。主は全ての人を愛しておられるからこそ、この自分をも、確かに愛してくださっている。感謝しよう。