2023年7月23日 主日礼拝

ネヘミヤ書 1章1~11節
國分広士牧師

人の歩みには悩みが尽きない。悩みを一人で抱えるのはさらにつらい。誰かに悩みを打ち明け共感してもらえると、気が楽になる。だが解決の力を持たない相手に共感してもらっても助けは得られない。悩みを訴えるべき相手は誰なのか。

  • 当然訴えるべきは全能の神。しかし、「神はいない」と思う人もいる。熱心すぎる祈りは呪術的だと感じ、狂信的になりたくない故に祈りから遠ざかる人いる。
  • 先入観にとらわれず、祈りの実例を学ぶことで、主に祈るとはどういうことなのかを考えたい。そこでネヘミヤの祈りを学ぶ。

1.祈りの課題(1-3)

  • ネヘミヤの時代は、ペルシャ帝国の時代。ユダの国はバビロンによって滅ぼされ、多くの民が捕囚となってメソポタミに連れ去られてから百年以上が経過していた。ペルシャはバビロンを滅ぼして、バビロンによって連れてこられた捕囚の民に、自国への帰還を許した。(エズラ1:1-4参照)すでに現地に定住していたユダヤ人は、現地に残る者と帰還する者と二手に分かれる。ネヘミヤは残る側だった。
  • ネヘミヤはペルシャの都スサにいて、王の献酌官になっていた。献酌官とは王と直接接し、その飲み物を提供する、王の側近。よほど信頼されている人しかなれない。そのまま献酌官として勤めていれば彼自身の生活は安泰だった。
  • しかし、ユダに帰還したうちの数人がスサに戻り、ユダの様子を伝えてくれた。ユダの都エルサレムはバビロンによって城壁を壊されたが、まだそのままなのだという。ユダに住む人々は大きな困難の中にいる。(1-3)

2.嘆き悲しみ断食して祈った(4)

  • これを知り、ネヘミヤは数日の間、嘆き、断食して祈った。彼自身は安全な状況にある。しかし故郷の悲惨な状況を思うと、いてもたってもいられなかったのだ。
  • かといって、いざエルサレムに行こうと思えば、自分が支えている王の許しが必要。王は自分から離れようとすることを怒るかもしれない。仮に王の許しが得られても、職を辞さねばならず、以後の生活が不安になる。
  • 自己犠牲をともなう祈りは、主イエスのゲッセマネの祈りを思いおこさせる。主イエスは私たちを救うために自分を犠牲にして十字架にかかったが、その前に父なる神に祈った。
  • 解決のために自分をささげる思いへとつながるのが真実な祈り。

3.神のことばを信じて祈った(5-11)

  • ネヘミヤは、自分の悩みを訴える相手のことを知っていた。誰でもいいから聞いて欲しいというような、自分本位な態度ではない。
  • ネヘミヤは申命記のことばを思いおこしている。5-6節は「主は信頼すべき神であり、ご自分を愛し、ご自分の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られる。しかし、ご自分を憎む者には一人ひとりに報いて彼らを滅ぼされる。」(申7:9)を思い起こし、エルサレムが滅ぼされ自分たちが補囚となったのは、主に背いたからだと認め、罪を告白した。
  • 8-10節は、申4:27-29を思い起こし、自分たちに当てはめる。そして主に立ち返る自分たちを「あなたの民」だと訴えて求めている。
  • 神を信じるには、神のことばである聖書の教えを理解し、期待することが必要。
  • ネヘミヤの願いは、「この人」つまり王の理解を得られること。絶対君主に何かを訴えるのは簡単ではない。王の受け止め方次第では処罰を受けることもあり得る。

結 

  • 2章には祈りの実現が記されている。悩むネヘミヤのさえない顔を見た王が心配して尋ねてくれたのだ。悩みの中で主のことばを信じ、主に訴えたネヘミヤの祈りは聞かれた。
  • 私たちも主を信じよう。悩みを訴える相手は、いつくしみ深い主イエスである。