2023年4月16日 主日礼拝

イザヤ書 5章1~7節
國分広士牧師

1.こんなはずではなかった

  • 良い結果を望んで準備したことが、期待はずれになるのは誰にとっても無念。この聖書の箇所は神が無念に思われていることが記されている。イスラエルという国民は、主が選ばれたアブラハムの子孫であり、主の救いの計画の実現のために主ご自身が育てた民。それが葡萄畑に例えられている。良い実りを期待して、よい環境を作りしっかり育てた葡萄畑。
  • ところが良い実ではなく酸いぶどうができてしまった。イスラエルの民は神の栄光を表す祭司の王国となるはずが、罪深くなってしまった。公正を望まれたのに流血や悲鳴が絶えない。

2.わざわいに満ちた現実

  • 8節以降に「わざわいだ」という指摘が続く。8節は自分勝手の幸いだけを求めるという問題。
    レビ記19:9−10には 収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈り尽くしてはならない。収穫した後の落ち穂を拾い集めてはならない。…ぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑に落ちた実を拾い集めてはならない。それらを貧しい人と寄留者のために残しておかなければならない。とある。貧しい人に余地を残すのが主のみこころ。ケチケチしてはいけない。収穫の主のみこころに背いた結果は、家が荒れ、蒔いた量より収穫が減る。
  • 11節は酒に支配されるという問題。22節も。飲酒に限らず、この世の楽しみには、主のみこころを考えなくさせる危険があることをわきまえよう。
  • 18節は嘘と虚勢。神を信じていないので、早く神のさばきが見たいと、身の程知らずの発言。
  • 20節は善悪の履き違え。アダムとエバもこの過ちで禁断の木の実を食べてしまった。
  • 21節は自分が一番正しいと思う過ち。これらの問題は誰の心にも潜んでいる。
  • 主イエスも自分を正しいとする者たちをわざわいだと言われた。
    わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、内側は強欲と放縦で満ちている。…外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだ。マタイ23:25-28
  • 「わざわいだ」と言われているのは誰か?自分の問題だと思う人だけが悔い改めに進む。主は悔い改めた者を赦し救うからこそ、厳しく問題を問われる。

3.さばきの先にある赦しと救いを願う

  • 16節に「万軍の主はさばきによって高くなり、聖なる神は正義によって 自ら聖なることを示される」とある。さばきは神の威厳を示す。究極のさばきがなければ、全ては成り行き次第になる。
  • イザヤ書は「旧約聖書の福音書」と呼ばれることもある。主イエスについての預言が多く含まれている。特に53章が有名。53:4-6節を読むと十字架の主イエスの姿が思い浮かぶ。
    まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。
    それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
    しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。
    彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
    私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。
    しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。
  • 「主は公正を望まれた」という厳しい指摘は、羊のようにさまよっている私たちに、自分の罪を自覚させる。その私の背きのために主イエスは刺され、私の咎のために砕かれた。そして彼が私の代わりに懲らしめられたので、私たちは癒され平安がもたらされるのだ。
  • 主に感謝し、罪を悔い改めよう。