2022年8月7日 主日礼拝

ルカの福音書 11章9〜10節
國分広士牧師

1.ですから

  • 「祈りを教えてください」という求めに対しての主の教えのまとめ。
  • 祈りの原則として主が教えたのは次の二つ。
    ①主の祈り(ふさわしい祈りのことば)
    ②真夜中に友にパンを求めるたとえ(熱心に求める模範)
  • その上で「ですから」と言う。
    祈るべき言葉も、求める意義もわかったなら、実際に熱心に祈れということ。
  • 知的理解にとどまり、実際には熱心に祈らないならば、私たちの祈りを待っている神は残念に思われるだろう。

2.求めなさい

  • 祈りは消極的だと勘違いされやすい。しかし「求める」「探す」「たたく」という態度や行動はいずれも能動的で、むしろ積極的である。
  • 神頼みは無責任だという批判もされやすい。この「無責任」という批判の背後には無神論がある。神の存在を認めなくても、祈りには心理学的効果(気持ちが楽になる等)を認めることはできる。すると無神論者は自分の気が楽になることだけを求め、他者のために努力しないのは無責任だと批判するのだ。
  • だが、真夜中に友にパンを求めるたとえは、責任感からの行動。恵みを与える存在が実際にいるならば、その方に求めるのは無責任ではない。また、他者に食べさせるために、代わりに頭を下げて恵みを請う姿は、私たちの身代わりとなり、今もとりなりをしてくださる主イエスの姿を彷彿とさせる。主イエスの模範に習うなら、他者のための祝福を勝ち取るとりなしの祈りをしよう。
  • 「たたきなさい」「探しなさい」という表現は、実際的な行動をイメージさせる。祈らずに行動することを教えているのではなく、祈ったなら、主の答えを期待して行動しなさいということ。祈りは行動につながる。

3.与えられます

  • 与えられることを信じないままで祈ることはないか。求める相手が神でないならば、求めても与えられないこともやむを得ない。しかし、主イエスは、そうすれば「与えられます」「見出します」「開かれます」と、応えてくださる神の真実を教えてくださった。
  • 「もし祈っても答えがなかったらどうしよう?」と心配して、自分が失望しないために、あまり期待しないようにしていることはないだろうか?
  • 私たち人間には与える力や愛が乏しいから控えめな人のほうが好ましく思われやすい。しかし愛に満ち全能の神に頼ろうとしないのは不信仰。もしくは神を不要とする傲慢さのゆえ。
  • 祈り、与えられることによって、信仰は深まる。与えられる経験を重ねることなしには、主への深い感謝と信頼の思いは湧いてこない。誰かが代わりに祈ることで祝福を受けることはあるが、自分が祈って祝福される経験ほどには、信仰を深めはしない。主イエスは私たちが信仰を得るように願い、さらに得た信仰を深めることを願い、「求めなさい」と命じてくださった。主のチャレンジに応え、もっと求めよう。