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2022年7月31日 主日礼拝
1.私の隣人とは誰か?
- 「何をしたら」永遠のいのちを受け継げるかと質問者は主イエスに尋ねた。
- この問いは、イエスを試みようとする意図は悪いが、問い自体には意味がある。そこで主イエスは律法にの記述を質問者に確認すした。質問者は要領よく2点に絞って返答した。それは、
(1)全力で神である主を愛する。(心、いのち、力、知性を尽くして)
(2)隣人を自分自身にように愛する。 - 主イエスは彼の返答を認め、その実行を求めた。
- 実行するには、自分が愛するべき対象を定める必要があるので、質問者は「私の隣人とは誰か?」と問いを進めた。
2.隣人になったのは誰か?
- 質問者の問いに、主イエスは三人の人を紹介し、隣人に「なった」のは三人のうち誰かと訊ね返した。その三人とは、
(1)倒れている旅人を見ても、反対側を通り過ぎた祭司。
(2)倒れている旅人を見ても、反対側を通り過ぎたレビ人。
(3)倒れている旅人を見て、近づき、傷の手当てをし、宿まで連れて行き、介抱し宿の費用を払ったサマリア人。 - 質問者である律法の専門家は「サマリア人」という言い方は避け、「あわれみ深い行いをした人」と答えた。
- この三人の設定は、サマリア人を嫌うユダヤ人である律法の専門家には気に入らなかっただろう。もしも主イエスの話がフィクションなら、「サマリア人がそんなことをするはずがない」「祭司とレビ人は同じ役割なので三人とするのは無意味だ」などと、噛み合わない議論にすり替えわったかもしれない。そうしたはぐらかしなく質問者が主イエスの問いにきちんと答えたのは、この話が実話に基づいていたからではないかと推測できる。
3.あなたも行って、同じようにしなさい
- 祭司やレビ人は、倒れているのは自分の隣人ではないと思った。もし知人だったら見殺しにはできなかっただろう。
- しかしサマリア人にとっても倒れていた人は知人ではなかった。それなのに、まるで家族に対してするような配慮の行き届いた助けをした。
- サマリア人は、もともと倒れていた人の隣人ではなかったが、彼に近づいて隣人に「なった」。真剣に相手を助けたいと思って、力を尽くした。
- このサマリア人の姿は、私たちの救い主に「なった」イエス様の姿を連想させる。主は罪に汚れた人間を見殺しにせず、なんとか救おうとしてくださる。
- 私たちはサマリア人のような行いができるだろうか?神を愛するなら、神ご自身に似せて造られた人も愛するのは当然。論理的にはサマリア人の行動こそ当然であり、見殺しにするのは間接的な殺人。実は多くの罪を犯している。
- 罪を悔い改め、赦していただき、赦された感謝の行動として、他に人に愛の手を差し伸べる者へと、造り変えていただくことを願おう。
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