2022年7月17日 主日礼拝

ルカの福音書 9章23〜24節
國分広士牧師

1.「わたし」について来たいなら

  • 私たちは尊敬し魅力を感じる相手に「ついて行きたい」と願うが、その相手がどういう存在であるのかをわきまえないと、ついて行くべき相手を間違うかもしれないし、選択は正しくても、ついて行きかたを誤るかもしれない。
  • 新改訳聖書のあとがきに、「神あるいはキリストが話し手である場合は、平仮名の『わたし』を用いている。」と、表記の工夫が記されている。主イエスが神であることを意識して読むようにとの意図の表れである。
  • 神は造り主であり、全能者であり、真の主権者であり、救い主である。主イエスが「わたしについて来たいなら」と言われたとき、主イエスが造り主であり、全能の神であり、真の主権者であり、救い主であると信じて彼の権威を認めてこそ、その招きの真意が理解できる。

2.自分を捨て、自分の十字架を負い

  • 「自分を捨て」と言っても、従うには自分の意思が必要。盲目的に従うことや無の境地になることが求められているのではない。主イエスの意思をよく理解し、自分の意思と主イエスの意思が食い違うときには、主イエスの意思に従うことが求められているのだ。
  • 主イエスの意思と人々の意思が重なるときには、誰でも従える。人々の意思が食い違う場合にも、自分の意思と主イエスの意思が重なるなら、人々の後ろ指を耐えれば従うことができる。
    しかし、主イエスの意思と、自分や人々の意思が食い違うときには?そのような場合にこそ「自分を捨て」ということばに重みが出る。人間の考えよりも神の考えが正しいと信じ、結果を計算せず委ねてるということである。
  • 「自分の十字架」は、各自に負わされる犠牲的な使命。主イエスの犠牲がその模範。主イエスはゲッセマネの祈りで自分の意思を示しつつ、父なる神の意思に従われ、十字架の苦しみを忍ばれた。
  • 私たちにも犠牲を伴う使命が与えられる。しかもそれは「日々」である。それができるかどうかは、主イエスを真の権威者と認めているかどうかにかかってくる。

3.救われる者は誰か

  • 自分のいのちを自分で救うことはできない。神は私たちの行いの全てをご存知だから、神の裁きに際して、自己弁護できる人間はいない。
  • 神の裁きに際して、私たちを弁護してくれる方が必要。それがキリスト。主イエスはご自分の十字架の裁きで私たちの罪を償い、その償いを根拠に弁護してくださる。だから、主イエスのためにいのちを失う者は、それを救うことになる。
  • 主イエスを信じることが大切。彼がどういう方なのか、もっとよく知ろう。