コンテンツへスキップ
ナビゲーションに移動
2021年11月7日 主日礼拝
1.罪の自覚
- 22節の「重荷を委ねよ」だけを見ると、穏やかで達観しているような印象を受けるが、21節までは心の葛藤を感じる。争い苦しめる者がおり「翼があったら」と逃げ出したい気持ちが述べられている。おそらく裏切った親友とは、ダビデの王子アブサロムの反乱の首謀者アヒトフェルのこと。ダビデは逃避行の中で「アヒトフェルの助言を愚かなものにしてください」(Ⅱサムエル15:31) と祈っている。心が乱れる状況の中で、ダビデは主に願う。単なる嘆きに終わらないのは、苦しみを訴える相手が主だから。
2.ゆだねよ
- 22節は苦しみの祈りの結論として、「主にゆだねる」ことを自分自身に諭している言葉のよう。自分の最も親しかった者に裏切られ、しかも裏切った相手は自分が正当だと、なめらかな言葉で攻め立てている。そうしたくやしい傷ついた心を、主に明け渡そうとする、重大な選択を自分自身に迫っている。
- 「主が支えてくださる」(22)というのが、ゆだねる理由。自分では自分を支えられない。強い圧迫がなければ支えはなしでも倒れずに済むが、自分を責め立てる激しい圧迫に対しては、支えてくださる方がどうしても必要。
3. 主にゆだねる者は罪を悔い改める
- ゆだねても、主は本当に自分のことを支えてくれるのか?支えてくださるりゆうは「主は、正しい者が揺るがされるようにはなさらない」ということ。正しくないなら?「自分など、薄汚れた人間だから」と思うと自信がなくなる。だから真剣に助けを祈り求める時、罪を悔い改める必要性もおぼえさせられる。
- 心から悔い改めれば、主は罪を赦し、正しい者として扱ってくださる。主に重荷を委ねるということは、ある問題の解決だけを都合よくお願いするのではなく、全人格的に、自分自身の全てを主に任せ、主が全てを正しく取り扱ってくださることを求めることなのだ。
4.私はあなたに拠り頼みます
- 主に明け渡せないでいるものがないか?そのために結局苦しんでいるということはないか?
- 「あなたの重荷を主にゆだねよ。」は、頑固な私たちへの主ご自身からの勧め。
主は「わたしを信頼して、一番気になっている重荷をゆだねなさい」と、勧めてくださっている。深い信頼感がなければ委ねられない。委ねられるということが、本当に主を信じているということ。形だけでなく、心から主を信じよう。
PAGE TOP