2021年10月31日 主日礼拝

詩篇 51篇
國分広士牧師

1.罪の自覚

  • 聖書は人間の罪の性質を隠さず、明らかにし、その罪からの救いを教える。医学において、まず病気の正体を解明してから対処法を研究するのと似ている。
  • 「自分の背きを知っています」(3)と詩篇作者と同じように告白できるだろうか?
    「私はそれほど悪くない」「きよさを訴えるのは偽善者だ」「悩んでも解決はせず、心の病気になるだけ」などと、言い訳をするのは罪の自覚を避ける態度。
  • 自分で自分の罪を解決はできない。作り直すことができるのは造り主だけ。造り主を知らないと、罪も解決も理解できない。

2.生まれながらの罪人

  • 「罪ある者として母は私を身ごもりました」(5)。アダムとエバの罪以来、すべての人間は生まれながらに罪の性質を持っている。心の内側から罪が出てくる。
  • 性善説に立つと、人間の心の本質は清いと考える。そこで外側なら清めることができるので、「もうしない」と言う決意が解決だと考える。自分の決意で自分を救おうとするのが「自力本願」。
  • 「ヒソプ」(7)は出エジプトの時に門柱と鴨居に血を塗るのに使った植物。(出12:22)汚れからの清めの儀式に用いられた。それは罪の性質が消えるという意味ではない。「御顔を私の罪から隠し」(9)ということは、罪がない者と認めてくださる、神の側の「義認」。
  • 生まれながらの罪人は「もうしない」と決意しても長続きしない。決意自体には一定の意味があるが、罪は決意で解決できない。「泳げるから津波も大丈夫」と思うのは津波をなめている。罪の津波を軽く見てはいけない。
  • 母は造り主ではない。最初の人は罪人として造られたのではなかった。神に背いて罪人となったのだ。初期状態にリセットできるのは、造り主だけ。

3. 神へのいけにえは砕かれた霊

  • 神は罪をどう解決するのか。「義のいけにえ」(19)は主イエスの十字架を連想させる。全く汚れのない神を満足させるいけにえは「その人自身」。しかしそれでは裁きはできても「赦し」と両立しないので神の愛は満足しない。神は自分自身が人間となりいけにえとなることで、赦しをもたらす義のいけにえを献げる。
  • 人間の側でできることは、「打たれ砕かれた心」をささげることだけ。砕かれるためには、「もうしない」と決意して挫折する経験も必要だろう。

4.背く者たちに あなたの道を教えます(13)

  • 心砕かれた者は何を喜ぶことができるのか。
    12節には「救いの喜び」「仕えることを喜ぶ」という2つの喜びが記されている。
  • 自分ではなく、神が自分を救ってくださることを知るのが「救いの喜び」。
  • 救ってくださった神が、自分が神に仕えることを受け入れてくださることを知るのが「仕えることを喜ぶ」こと。
  • 神への奉仕として「背く者たちに あなたの道を教えます」(13)と決意しよう。その決意は私たちに喜びをもたらす。