2021年10月24日 主日礼拝

マルコ 15章33~39節
國分広士牧師

1.「わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」

  • 主イエスは十字架上で7つのことばを語られたことが四福音書を見るとわかるが、マルコには1つしか記されていない。
  • 両脇の十字架の犯罪者たちは多くの言葉を語るので、それに比べて主イエスが静かだったことを表している。あえて口にしたことばには深い意味がある。
  • 語られたのは、主イエスの時代より1000年前の、詩篇22:1のことば。苦しみの中で神から見捨てられていることを嘆くことばなので、その時の主イエスの心の苦しみの表現だが、十字架預言をお示しになる意味でも語られたのだろう。
  • 詩22:7-8は主への嘲り。私を見る者はみな私を嘲ります。口をとがらせ頭を振ります。「主に身を任せよ。助け出してもらえばよい。主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから。」
  • 詩22:18は着物のくじびき。彼らは私の衣服を分け合い私の衣をくじ引きにします。
  • しかし詩22は嘆きで終わらず「主が義を行われた」と結ぶ。主イエスはご自分の受難の意味は「主が義を行われる」ことだと言われているのだろう。

2.闇が全地をおおっていた

  • 昼の12時から主イエスが絶命する3時まで闇になる。その闇の中で「わが神が私を見捨てた」と主イエスは言われた。ということは、父なる神が主イエスを見捨てたので闇になったのだろう。三位一体の神である主イエスが、一瞬でも父なる神から見捨てられることなどありえないので、つらかったのだろう。
  • 父なる神としては、人間の罪を身代わりに背負い、その罰として十字架刑になる主イエスは見捨てなければ真の裁きにならない。泣く泣く見捨てた父もつらかったはず。詩22は神のお気持ちの代弁の詩。
  • 37節の大声はルカ23:46では「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」と記されている。主イエスはどこまでも父なる神を慕い求めたのだ。

3. 神殿の幕が真っ二つに裂けた

  • 神殿の膜とは、聖所と至聖所を区切る仕切りの幕。至聖所は神の領域なので、誰も入ってはいけない所。その幕が裂けたのは、神の領域に人が入れるようになったことを示している。
  • 主イエスが私たちの身代わりに死なれたので、私たちは罪が贖われた者として、神に近づくことができるようになった。これが「主が義を行われた」結果。
  • 主イエスはそのために苦しまれた。だから詩篇22:1を口にされた。神を恨んだり呪ったりしたのではなく、むしろどこまでも神を慕い求めたから語られた。
  • 私たちもどこまでも主を慕い求めよう。他には救いはないのだ。