2021年7月18日 主日礼拝
1.手を置く
a.罪を負わせる
- レビ1:1-4(その人は自分が主の前に受け入れられるように、それを会見の天幕の入り口に連れて行き、その全焼のささげ物の頭に手を置く。それがその人のための宥めとなり、彼は受け入れられる。)
b. 任職
- レビ人の任職 民8:10(イスラエルの全会衆を集め、レビ人を主の前に進ませる。イスラエルの子らは手をレビ人の上に置く。)
- 執事の任職 使徒6:6(この人たちを使徒たちの前に立たせた。使徒たちは祈って、彼らの上に手を置いた。)
- テモテへの按手 1テモテ4:14(長老たちによる按手を受けたとき…)
c. 祝福
- マルコ10:16(そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。)
→手を置くのは、神の御手に委ねる意志の表現。
2.繰り返し手を置く
- 人の罪深さのゆえ。悔い改めてもすぐまた罪を犯す。
- 生贄の血を色々なところに注ぐのは、贖いが全ての面に及び、完全な救いを求める故。悔い改めきれない罪を犯しているから。
- 民の代表として負わされている責任の大きさの故。自分自身だけでなく、民全体の罪を負っていることを考えれば、ますます贖われるべき罪は大きい。
- 実はこれらの教えが山でモーセに語られている最中に、山の下の民はモーセの帰りが遅いことに動揺し、不安を静めるために偶像を造ることを考え始めていた。この教えが実行された時には、本当に深い罪を民も祭司も犯してしまっており、主は全て滅ぼすとまで言われた。(32:9−10)主は贖うべき人の罪深さをよく知っておられる。
3.真に委ねるべき相手は主イエス
- 動物の生贄は不完全。完全な生贄は主イエス(ヘブル10:1-10)
1,律法は、年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって神に近づく人々を、完全にすることができません。
5,ですからキリストは、この世界に来てこう言われました。「あなたは、いけにえやささげ物をお求めにならないで、わたしに、からだを備えてくださいました。
10,このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。 - 生贄も、生贄をささげる祭司も、救い主イエスを示している。祭司はいけにをささげるたびに、自分自身と民の罪を思い起こす。私たちも主イエスの名前によって祈るごとに、主イエスに手を置くような思いで、全てを委ねよう。