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2021年1月31日 主日礼拝
1.幸いな信仰告白をしたペテロ
- 主イエスはすでに有名人だったが、彼をどう見るかは様々な見解があった。
- 敵対するパリサイ人たちは悪霊に憑かれていると見ていた。好意的な人々は預言者と見ていた。しかし、そのどちらの見解も主イエスは受け入れなかった。
- そこでご自分の目の前の弟子たちに「あなたがたは?」と尋ねる。傍観者としてなら無責任に色々な可能性を論じることができる。しかし、目の前の主イエスに「あなたが救い主なのかどうか、よくわかりません。」と言うなら、もはや弟子として従うことはできない。かといって保身のために「信じます。」と言っても主は見抜く。
- ペテロは「あなたは生ける神の子キリストです。」と明言した。その告白が勢いだけでないことを主イエスは認め、「あなたは幸いです。」と評価された。
- ペテロとは岩という意味。彼の告白した信仰こそが「岩」。信仰という確かな岩の上に、主はご自分の教会を建てる。この教会が、救いの福音を世にもたらす。ここに信仰の幸いがある。
2.よけいな心配をしたペテロ
- 感動的な信仰告白に続き、主は受難について予告された。キリストはいきなり王として君臨するのではなく、まず世の罪を贖うために、ご自分を捨てられる。彼が私たちの罪のために死なれるからこそ、私たちの罪が赦される。主の受難は、神の救いの計画のクライマックス。だから主は弟子たちにこれを予告した。
- ところが、ペテロはそれが理解できず、「とんでもない」と主をいさめた。ペテロは善意でそれをしたが、主イエスは「下がれ、サタン。」と叱責した。
- ペテロは何を間違えてしまったのだろうか?彼には確信があった。主イエスこそ、生ける神の子キリストだと。そんな偉大な方が、キリストに従うべき人々に卑しめられ殺されるとは考えられなかったのだ。つまり、彼の信仰が、主イエスのことばを拒絶したのである。ここに信仰の危険がある。信仰は両刃の剣。正しい信仰は幸いだが、誤った信仰ほど危険なものはない。
3.自分を捨て、主イエスに従う
- 独善的で誤った信仰に陥らないためには、どうしたら良いのだろうか?
- 主イエスはペテロの信仰の誤りについて、「神のことを思わないで、人のことを思っている」と語られた。信仰は神を信じることだが、信仰を実際問題に適用しようとするときに、思いが人へとシフトし、神がどこかに消えてしまうのだ。
- 主イエスは弟子たちに「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」と言われた。自分と主イエスと、どちらかを優先しなくてはならないなら、自分を捨てよということ。
- 人間の間の権威の問題なら、封建的な発想と思われるだろう。しかし主が言われるのは、神と人との関係であって、人間同士の間の権威の問題ではない。有限な被造物が、無限で全能な造り主の前にひれ伏すかどうかという問題である。ペテロは自分の不完全は信仰に頼らず、もっと主の教えを求めるべきだった。
- 自分でなく、神をまず信じよう。罪深い自分の思いを捨て、罪を赦してくださる主イエス・キリストに従おう。
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