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2020年12月20日 主日礼拝
1.あなたがたのために
- 聖書を信じる人々は皆、救い主の誕生を待ち望んでいた。しかし、実際に主イエスが生まれた時、その子が救い主だと知っているのはマリアとヨセフ、またバプテスマのヨハネの父母ザカリヤとエリサベツだけだった。後に東方の博士たちが来た時にヘロデ大王が幼子キリストを殺そうとしたので、人々に知られずに成長することが、むしろ望ましかったのだ。
- そのような事情の中でも、特別に救い主の誕生を知らされた人々がいたことをルカは指摘する。御使いは野宿で羊の夜番をしていた羊飼いたちに「あなたがたのために」と言われた。もしも救い主誕生が人々に知らされたとしても、そのニュースが届きにくい人々であった。2章後半に登場するシメオン、アンナたちは、主イエスが公生涯に入ることを見ることなく人生を終える老人だった。
- 神は原則から外れない堅苦しい方なのではなく、たくさんの例外をも行う柔軟な方なのだ。原則は大切だが、原則通りでないと決めつけず哀れみを求めよう。
2.みこころにかなう人々に
- 御使いの賛美の中で、天における神の栄光と並べて、「地の上で平和がみこころにかなう人々に」と歌われる。この平行法は、似た意味を繰り返すパターン。天の栄光は神の完全な支配なので、ここで言われる地の平和は、地においても神の支配により完全に守られる平和のこと。人生最大の祝福。
- その祝福は「みこころにかなう人々」に与えられる。誰が神のみこころにかなうのだろうか?律法を守れば救われるが、残念ながら律法を完全に守れる人はいない。しかし、どんな人でも、罪を悔い改め、神の赦しを求めることはできる。
神へのいけにえは砕かれた霊。打たれ砕かれた心。
神よあなたはそれを蔑まれません。(詩篇51:17)
3.私たちに
- 羊飼いたちは、自分たちに知らされたことを重んじた。知らされても、従うかどうかは受け止める人の意志による。彼らは自分の意思で従った。
- 羊飼いのことばから、大切なポイントを2つ指摘できる。第一は「主が知らせてくださった」こと。第二は「私たちに知らせてくださった」こと。
- 「主が」ということは、神の知らせなのだから確かな内容だということ。ニュースは発信者が誰かが最も重要。
- 「私たちに」ということは、自分たちの応答が求められているという責任感。造り主と私たちの関係は、従っても従わなくても良い他人の関係ではない。必ず応答が求められる親密な関係なのである。
- 私たちも聖書を学んでも、それを信じ従うかどうかは、いつも自分自身の課題。「主が私に知らせてくださった」こととして受け止め、従う行動を起こそう。
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