2020年12月27日 主日礼拝

マタイ 9章35節~38節
國分広士牧師

1.主は深くあわれまれた

  • 何をあわれまれたのか?
    ①羊飼いのいない羊の群れのようだから
    羊は群れを作る習性があるが、知恵はない。近眼で、肉食獣と戦う力も弱く、逃げ足も遅い。羊飼いに守られなければ、群れは弱体化する。
    ②弱り果てて倒れている
    主イエスは多くの病を癒し、悪霊を追い出し、誤った聖書解釈を正した。病も悪霊も誤解も、人を滅びに向かわせる。病は体を滅ぼし、霊的問題は魂を滅ぼし、誤った聖書解釈は、肉体的霊的に健全な人をも、主の望まない過った方向に向かわせる。主イエスは様々な問題に直面する人々を憐れまれた。
  • しかし主イエスは「問題が多い」と言われたのではない。「収穫は多い」と言われたのだ。問題を解決する意志と、解決できれば収穫できる確信が、主イエスにはある。

2.収穫は多いが働き手が少ない

  • どんなに実っても、収穫作業ができなければ、人の口には入らない。収穫作業をする人が足りないと主イエスは言われた。
  • 私たちは自分たちの現状を見て、働き場が少ないように感じる。韓国では神学校卒業生の就職先が足りない。しかし日本では、神学生が少ないのに、牧師不在で困っている教会の多くが経済的に弱体で満足な牧師給を払えないため、招聘ができないでいる。また、福音を語る機会があっても、多くの人々はそれを聞き流し、聞き従うことはしない。
  • しかし主イエスのことばは変わらない。「収穫は多いが働き手が少ない」と言われたのだ。働き手は主イエスと同じ視点を持って問題を理解し解決に向かう資質が必要。私たちもその資質を持ちたい。

3.主が「ご自分の収穫のために」働き手を送るよう祈ろう

  • 解決のためには、主の導きが必要。なぜなら「主の収穫」なのだから。
  • 私たちは自分の収穫ではないので、主を愛していなければ、無関係に思う。自分さえ平和で安全なら良いと思う。しかし、主を愛しているならば、主の収穫に関心を持つ。
  • 主は私たちの世に目を注ぎ、罪による苦しみが満ちていくのをあわれみ、収穫が必要と思っておられる。その収穫の働き手としては、天使たちさえ用いることもできるだろう。だが、私たちも働き手になる可能性がある。他人事と思わず、自分自身の課題と考え、「みこころなら私を用いてください」と祈ろう。