2020年10月18日 主日礼拝

創世記 43章1節~14節
國分広士牧師

1.ヨセフの夢の実現

  • かつてヨセフは兄たちが自分を拝す夢を見たが、実現した。飢饉になり食料調達のためにエジプトに来た兄たちが、責任者であったヨセフを拝したのだ。
  • ヨセフは兄たちだと分かったが、スパイの疑いをかけて詰問した。それにより、他の家族が無事であることを確認できた。
  • ヨセフは自分だとは明かさず兄たちを試み、弟ベニヤミンを連れてくるよう求めた。その際に兄たちが自分を奴隷に売ったことを後悔していると知り、泣いた。
  • 深い恨みは忘れることができない。和解以外には心の傷は癒されない。

2.自分が責任を負うと父を説得するユダ

  • 兄たちは父に報告したが、父はベニヤミンを行かせない。長子ルベンが自分が責任を負うと言ったが、かつて自分を裏切った(35:22)ルベンには任せなかった。
  • 食料が尽きたために父は再度エジプトに行くよう兄たちに頼む。追い込まれないと、重大な決断はしにくいもの。
  • 四男であるユダは、自分が保証人となり責任を負うから、ベニヤミンを連れて行かせて欲しいと父を説得する。父は長子ルベンは信用していない(49:3)。次男シメオンは囚われの身。三男レビは、妹が汚されたことを怒り、シメオンとともに虐殺行為をした(34:25-31)ことがあり、父に信用されていない(49:5)。実質、兄弟たちの中で、最も父に対して責任を負えるのは四男のユダだった。
  • このユダの志願の姿勢に、主イエスが私たちの救い主となってくださった思いを感じる。

3.全能の神のあわれみを願うイスラエル

  • イスラエルはベニヤミンを行かせることを決断する。
  • 本来なら、自分自身が行きたいとろだっただろうが、高齢のため、息子たちに委ねた。しかし、真にイスラエルが頼ったのは、ユダや息子たちではなく「全能の神」だった。
  • 「私も、息子を失うときには失うのだ」ということばは、ヨブを思い起こさせる。そこには主に委ねる思いがある。
     「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。
      主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」ヨブ記1:21