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2020年4月19日 主日礼拝
1.私をお守りください(1)
- ご近所さんが「嫌な世の中ね。」とつぶやいた。コロナウイルス感染の話題ばかり聞いているとそう感じるのも無理はない。「密です」と言って人との距離をとることで自衛するしかないのか?
- 詩篇作者は守ってくださる方に心を向ける。「身を避ける」とは、敵が無数の火矢を放ってくる戦場において大きな岩の陰に避難するような表現。命がけで戦った経験が幾度もある作者の率直な思いとして「あなたに」身を避けると言っていることに注目。単なる気休めとして神に頼っているのではない。
2.私の幸いはあなたのほかにはありません(2)
- 神に幸いがあるというだけなら反論はあまりないだろう。しかし「他にはない」と言うなら「そんなことはない」という反論があるだろう。人はいろいろなことに幸いを見いだす。神は幸いをもたらすものの一つに過ぎないと思われている。
- 神以外に幸いを見出す者の例として、「他の神に走った者(4)」があげられ、「彼らの痛みは増し加わります」と述べられる。他の神にも魅力があり、一時的には幸いを感じるかもしれないが、最後には災いとなるとみなしているのだ。
- なぜか?10節に「よみ」と記されているのが理解のヒント。「よみ」について記されている他の聖書箇所を参考に考えてみよう。
- ルカ16:19-31に、よみについての最も具体的な記述がある。これは比喩なのかもしれないが、参考にして学ぶべき話として語られている。そこには自分自身は不自由なく幸せな生涯を送りながら、よみに下った金持ちと、金持ちのゴミをあさっていたが、死後にアブラハムの懐で慰められる乞食が登場する。金持ちは後悔するが手遅れで、自分も家族も救えない。「よみ」とは滅び。
- 真の幸いは、「アブラハムの懐」で慰められること。地上で楽しく遊び暮らすことができても、よみに落ちては無意味。真の救いを与えることができるのは造り主であり救い主である方だけ。だから「私の幸いはあなたのほかにはありません」と告白するのだ。
3.助言をくださる主(7)
- 天に行くまでは何も幸いはないのか?そうではない。3節では「聖徒たちには威厳が」あり「喜び」がある。6節では「割り当ての地」が与えられる。7節では「助言」が与えられ、9節では喜びと安らかさ、11節では「いのちの道」を知り、みちたりた喜びがとこしえにあると表現されている。
- これらの地上で受ける祝福のうち、特に「助言」に注目しよう。助言が具体的に与えられるのは聖書による。聖書によって私たちは創造もよみも天国も知る。聖書がなければ、人生の基盤となる前提は何もわからない。
- 不安が大きい時こそ、助言が必要。みことばを求めよう。みことばが与えらえると、主が右におられると実感し、平安を得ることができる。
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