2020年4月12日 主日礼拝

ヨハネの福音書 20章1~23節
國分広士牧師

1.空になった墓

  • イエス様の墓が空になったことを最初に知ったのは弟子の女たち。すべての名前はわからないが、四福音書のすべてにマグダラのマリヤの名前が記されている。ヨハネの福音書ではマグダラのマリヤしか登場しないので、彼女の証言がいかに重要かが示されている。
  • ルカ23:55-24:3によると、イエス様が埋葬された様子を弟子の女たちが見届けているので、確かにイエス様のからだは墓におさめられた。その同じ女たちが再び墓に来たので、墓を間違えることはない。確かにイエス様の墓は空になったのだ。イエス様の体はどうなったのか?盗まれたのか?復活したのか?

2.なぜ泣くのか

  • マリアは盗まれたと思って泣いた。「私の主」という言い方に悔しさがにじんでいる。
  • マリアは主に呼びかけられ姿も見たが、園の管理人だと思いこむ。感情や先入観に支配されていると事実を見誤る。しかし、感情や先入観のない人はいない。私たちは事実を認識する上での弱さがあることを認めよう。
  • アリアは主に自分の名前を呼ばれて、ようやく目の前にいる人がイエス様だと気が付いた。事実を認識させたのは主ご自身であった。似たような経験は、エマオ途上で主に出会った二人の弟子たちにもあった。私たちにとっても同様である。主が、感情や先入観を超え、確かな事実を理解せてくださるのである。

3.主を見て喜んだ

  • マリアの証言は変化した。最初は「誰かが主を取っていきました」(2) と言っていたが、次には「私は主を見ました」(18)と言ったのだ。同じ人の証言に変化があった。なぜか?頭がおかしくなったのか?本当に主に会ったのか?
  • その日の夕に、弟子たちのいる家に主が現れ、十字架の傷跡も示された。マリアの証言を聞いていたけれども信じなかった弟子たちは、自分でも主を見て喜んだ。ここにも心境の変化がある。なぜ変化したのか?頭がおかしくなったのか?本当に主に会ったのか?

4.主とともにいる平安

  • 主は「平安があるように」と言われた。シャロームというヘブル語。挨拶のことばになっているが、19,21節に繰り返される強調は、単なる挨拶ではなく、主がともにおられるから平安だという主張を示している。
  • もしも頭がおかしいなら、主が共にいるように思い込んだということ。その場合は、皆が同じ経験をするはずはない。各自がそれぞれ別の思い込みをするはず。主が復活してともにおられるという共通の認識が、頭のおかしい人々によって生み出されるのだろうか?
  • 聖書は復活を事実として伝え、これによって罪の贖いがなしとげられ、赦しが与えられたことを教える。主は今も生きてともにおられる。この信仰に立って平安をいただこう。