2018年11月18日 主日礼拝

詩篇 119篇161~176節
國分広士牧師

大きな獲物(162節)を見つけた者のように

狩りや漁で大きな獲物を見つけたら、捕獲者は興奮してなんとか得ようと知恵を尽くし忍耐を尽くし力を尽くして、それを捕獲しようとする。

申命記6:5には「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」とある。

逆境の中で

詩篇作者は、安全が確保された中でみことばを求めているのではない。

v161「君主たちはゆえもなく私を迫害します」というのだから、大変な危険の中にある。

聖書など読む余裕などないと拒絶しそうな中で、みことばを求めている。

それでも作者は「偽りを憎み(v163)」、「みおしえを愛」す。

横田姉はめぐみさん失踪で嘆く中で聖書をいただくが、最初は読む気になれなかった。しかしふと開きヨブ記を読んだ時、全てを支配するお方がおられると感じ始めた。今に足るまでそのことばが彼女を支える。

まさに大きな獲物だった。

平安をいただく

v165 みことばをいただく者には平安がある。

地上の歩みにおいて私たちが受ける最前は平安。

平安は喜び(162)を生み、喜びは賛美(171,172)をもたらす。

祈り求めつつ

平安であることは、これ以上求めないということではない。

v169では悟りを求めている。私たちは仏教的な悟りの境地に達しようとするのではない。

v176では自分を「滅びる羊のようにさまよっています」と告白している。

もう私は十分だという悟りの境地ではなく、みじめな罪人(ローマ7:24)と告白し、どこまでも主の導きを求め続ける。

私たちは羊なのであり、どうしても飼い主が必要なので「捜して」と願う。

飼い主を忘れないために、主の仰せを忘れずに心に刻むのだ。