2018年5月27日 主日礼拝

マタイの福音書 15章1~20節
國分広士牧師

口に入るものは人を汚さない。

  • 「手を洗う」というのは、現代人の考える衛生的な行為ではなく、宗教的なきよめの儀式ユダヤ人は聖書だけでなく、言い伝えも律法として重んじていた。聖書として書かれたものを「成文律法」と呼び、言い伝えは「口伝律法」と呼んでいた。口伝は聖書をどう解釈して適応するかという踏み込んだ内容で、時には成文律法をも拘束した。主イエスは言い伝えが聖書の教えを歪めている問題を指摘された。
  • 手を洗う儀式は手順も決まっている。「最低卵の殻1個半の水を、まず両手にかけ、指先を上に向けて水を手首から下に落とす。次に指先を下にして反対方向から水をかけ、最後に片手ずつ反対の手のこぶしでこすってきよくする。」手順を無視すれば洗っていない、すなわち汚れた手。汚れた手でさわったものは汚れるので、自分の身を汚す。汚れた人は神殿に行けないなど、制限がかけられる。
  • 使徒ペテロもきよめにこだわっていた。幻で「あらゆる四つ足の動物、地を這うもの、空の鳥」を見せられ、神に「食べなさい」と言われた時、「主よ、そんなことはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」と答え、「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。」と戒められた。(使徒10:10-15)
  • 主イエスは「口に入るものは人を汚しません」と言われた。それは「口に入る物はみな、腹に入り、排泄されて外に出される」から。

口から出るものが人を汚す。

  • 「口から出るもの」とは心から出るもの。何が出てくるのか。
  • 主イエスは一例として、「悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしり」といった事柄をあげられた。
  • きよめの問題は、神に評価されることを願うからこそ。しかし、心の内側から罪が湧き出てくることこそが問題。いくら外側をきよめても意味がない。たとえコップがきれいに洗ってあっても、泥水がくんであったら飲みたいか?
  • 私たちは良い生き方をしたいと願うが、その願い通りにならないのは、心から汚れがでてくるから。真の解決は心の内側から。

聞いて悟りなさい。

  • 以前から、祭司エリには警告としての呪いの預言が語られていた。彼の息子たちが祭司でありながら神へのささげものを私物化し、不倫も犯しと、非常に罪深かったっため、「あなたの二人の息子、ホフニとピネハスの身に降りかかることが、あなたへのしるしである。二人とも同じ日に死ぬ。」(2:34)と。
  • 警告預言はサムエルによっても語られた。「その日わたしは、エリの家についてわたしが語ったことすべてを、初めから終わりまでエリに実行する。わたしは、彼の家を永遠にさばくと彼に告げる。それは息子たちが自らにのろいを招くようなことをしているのを知りながら、思いとどまらせなかった咎のためだ。」(3:12-13)。
  • 聞いても悔い改めず、息子たちに祭司の務めをさせ続けた結果、息子たちは戦死し、呪いの預言は成就した。しかも契約の箱まで奪われてしまった。