2018年5月13日 主日礼拝

サムエル記第一 3章11~21節
國分広士牧師

主が語られたさばき。(11-14)

  • サムエルが主のことばを聞く姿勢ができた時、主ははっきりと語られた。  サムエルが悟りを開いたのではない。彼は聞いただけ。  意識もうろうと聞いたのではない。はっきり目覚めて一語もらさず聞いた。
  • 語られた内容は、前章で神の人が語ったさばきとしての災いが実現するということ。  実際には、その実現はしばらく後(4:1参照)。まだ悔い改めるチャンスはあった。  「永遠に赦されることはない」はずの罪が、悔い改めて赦されるというのが聖書の一貫した教え。それは赦しの代価として十字架のあがないがあるから。

サムエルは主のことばを語るのを恐れた。(15)

  • サムエルは、世話になったエリに対するさばきのことばを語るのを恐れた。それを語れば、エリが悲しむことは目に見えていた。どう言えば傷つけないですむかと思ったり、言わないですませる言い訳も考えただろう。確かに相手の感情を考えると、自分のことばは控えるべき。しかし、神のことば黙っていてはいけない。
  • 今年1月、麻薬捜査でUZIというラップミュージシャンが逮捕された。自宅の捜索をするといくつも麻薬が見つかり、捜査官が「他にないか?」と問うとUZIはすなおな態度で「これで全部です」。ところが別室を探すとさらに麻薬が見つかる。また捜査官に「もうないか?」と問われると「本当にこれで全部です」。ところが念入りに探すとまだまだ見つかることを繰り返した。罪は真実を隠そうとする。
  • 神の言葉は真実。絶対に隠してはいけない。

エリは主のことばと認めつつ、悔い改めなかった。(16-18)

  • エリはサムエルがはっきり言わないので、黙っていたら神に罰せられると言った。すでにエリは神の人からきびしいさばきのことばを聞いていたので、また言われるかもしれないのだが。医師に病名を問うような気持ちなのか、はっきり言って欲しかった。
  • きびしく促され、サムエルは隠さずに語った。ここできちんと語るか、誤魔化すかは、彼が主の預言者にふさわしいかどうかの分かれ道だった。
  • サムエルは覚悟を決めて全てを語った。
  • エリは「その方は主だ」と、サムエルのことばを認めた。「主が御目にかなうことをなさるように。」と、神には間違いがないことを毅然と認めた。
  • だが、彼がとるべき態度は、毅然とした態度ではなかった。むしろ、嘆き悲しみ、神に哀れみを乞うべきだった。悔い改めないなら、主のことばどおりに裁かれてしまう。かっこをつけている場合ではないのだ。

主のことばを隠さずに語り続けた結果。(19-21)

  • この時から、サムエルは主のことばを受け、人々に伝える預言者として歩み始めた。「主は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とすことはなかった。」とあるのだから、彼の語ったことばは確実に実現し、ついに全イスラエルが、サムエルが主の預言者として立てられたことを知った。
  • それはエリにとっては最後のチャンス。サムエルのことばは実現していくのだから、自分に語られたことも実現するはず。チャンスはあった。しかしエリは反対に「なかなか裁きは実現しないから、まあいいか。」と甘え、ついに最期まで悔い改められなかった。いつかでなく今、本気で悔い改めなければならない。