2018年3月25日 主日礼拝

ルカの福音書 22章31~34節、39~62節
國分広士牧師

1 主は、ペテロが主を知らないと言うと予告した。(31-34)

  • 主イエスは、このあと、逮捕され、十字架刑にされることをご存知だった。弟子のシモン・ペテロは、最後まで主とともに歩むつもりだったが、彼は苦しみの厳しさも自分の弱さもよくわかっていなかった。主イエスは、彼のために祈られた。
  • 主イエスは、鶏が鳴く前にペテロが主イエスを三度否認すると予告した。
  • そのあとで立ち直ることも予告し、立ち直ったら他の兄弟(信者)たちを励ますように命じられた。このご命令は、私たちにも当てはめて考えられる。

2 ペテロは肝心な時には眠り、余計なことまでした。(39-51)

  • 主イエスが受難前に心を整えるために必死で祈る時、ペテロら弟子たちは眠ってしまった。主イエスに従うつもりでも、実際は従いきれない弱さが露呈したのだ。
  • 主イエスを逮捕しにきた人々に対し、主イエスを守ろうと剣をふるった弟子はペテロ。(ヨハネ18:10 シモン・ペテロは、剣を持っていたが、それを抜き、大祭司のしもべを撃ち、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。)  主イエスは「やめなさい」と制し、傷を癒された。ペテロは主イエスを守ろうとしたが、実際は守れないし、主イエスのみこころとも合わない余計な行動だった。
  • マタイ26:56によると、「そのとき(主イエスが逮捕された時)、弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった。」自分の身の安全のためには逃げ出すのが現実の姿。

3 予告通りペテロは主を知らないと言った。(54-60)

  • 一旦は逃げたペテロは、主イエスのその後が気になり、こっそり付いて行き、取り調べが行われた大祭司の家の庭に潜入。危険を犯しても事実を確かめようとする勇気はあった。
  • しかし、主イエスの弟子ではないかと問われると、「知らない」とごまかす。自分の真実な心を語る勇気はなかった。
  • 一旦疑われたペテロへの追求は終わらず、三度目に否認したときに、鶏が鳴いた。全て主の予告通りだった。
  • その時、主イエスがふりむいてペテロを見た。主イエスは全てをご存知だった。

4 ペテロはなぜ泣いたのだろうか。(61-62)

  • 主イエスに見つめられたペテロはいたたまれなくなってその場を去り、激しく泣いた。彼の涙の意味を考えよう。
  • 第一に、最後まで従うと誓った主イエスを、自分の口で「知らない」と、三度も言ってしまった心の痛み。言いたくないことばを言う経験は、自分の心を傷つける。
  • そのことばを主イエスに聞かれたこともショック。それでもペテロは主イエスを愛していたし、愛されたかった。主を悲しませたことがつらかった。
  • 何のために危険を犯して潜入したのか?やめておけばよかったという後悔もある。
  • 従えると思っていた自信を喪失したこともショック。自分の弱さを知ることは辛い。
  • それでも泣けて良かった。涙は自分の罪を自分で償えない弱さの素直な表現だったから。
  • もう一人の裏切り者は泣かなかった。それはユダ。ユダは主イエスが十字架刑になることを知って後悔し、もらった金を祭司長たちに返しに行った。(マタイ27:3-5)しかし祭司長たちはユダを相手にせず、自分で始末しろと言った。それでユダは金を神殿に投げ込み、首吊り自殺をしてしまった。
  • 彼は泣かなかった。自分で始末しようとした。しかし謝りもせずに自殺しても罪の償いにはならない。自分の弱さを認めるほうが、神は喜ばれる。