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2018年4月1日 主日礼拝
1 女たちの証言を信じられなかった弟子たち。(1-12)
- 主イエスの墓に行った女たちは、墓が空になのを見た。そして天使に出会い、主イエスが復活されたと教えられた。しかし弟子たちは彼女たちの報告を信じなかった。
- なぜ信じなかったのか?
- 第一に、死人が生き返るとは常識的に考えられない。聖書には死人の生き返りの事例がいくつも記されているし、主イエス自身が12歳の少女やラザロなどを生き返らせた。しかし、主イエスの肉体は十字架でボロボロ。とうてい蘇生はありえない。
- 第二に、女たちへの偏見。人のことばを信用しない人は、結局、自分しか信じない。
- 私たちは常識を重んじる。日本人の思想に絶大な影響のある儒教は、常識を基礎としてそれを発展させてあらゆる物事を捉えようとする。しかし、孔子も自分の常識の限界を認め、「三人集まればそこには自分の師がいる」と教え、自分の枠を超えた事柄を柔軟に受け入れる必要性に気がついていた。
- 常識にとらわれ偏見を持って見る人は、心の目が開かれていない。
2 目がさえぎられていた弟子たち。(13-35)
- エマオ途上で主イエスに出会った弟子たちは、まさに心の目が閉ざされた人の姿。彼らは実際に彼らといっしょにいるイエス様に気がつかない。自分の常識にとらわれ偏見をもって見るので、「イエスに似た人」にしか思えない。
- しかし、まだ目が開かれていない彼らも、イエス様の語ることばには、心を動かされた。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」
- みことばは心を主イエスに向けさせる。ここにみことばを伝える意義がある。
- 食事の時に、ようやく彼らは目を開けられ、主イエスだとわかった。
3 復活を不思議がった弟子たち。(36-43)
- エマオから戻った弟子たちは、エルサレムに戻り、他の弟子たちと主イエスの復活について語り合う。そこに主イエスご自身が現れてくださった。ところが、弟子たちは喜ぶのでなく、幽霊だと思って恐れた。目が開かれていない人は、どこまでも疑う。
- 主イエスはご自分にさわらせた。それでも弟子たちは不思議がる。
- 「不思議がる」とは、「自分なりに納得したい」ということ。自分の理解のしかたでないと納得できないのだ。事実を見ても、自分の考え方で整理できないと、目の前の事実を受け入れられないのだ。
- この現象は、誰もが経験する。「トリック」は、こうした人間の理解の弱さを利用している。実は、私たちは、自分が思うほどには事実を把握していないのだ。
- 主イエスは私たちの弱さを理解し、目の前で魚を食べて見せ、生きておられることを実感させようとしてくださった。
4 聖書を悟らせるために弟子たちの心を開いた主。(44-48)
- 子たちに教えを語る時、主イエスはついに弟子たちの心を開いてくださった。
- その目的は、「聖書を悟らせる」ためだった。感動をおぼえるだけなら、心が開かれていなくても感動できる。しかし、神のことばを本当に理解するためには、心が開かれなくてはならない。
- ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。(第一コリント12:3)
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