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2018年3月11日 主日礼拝
1.過越の儀式。(21-23)
- ファラオはモーセに対して二度と顔を見せるなと言った。これまで主からの災いが起きる度にファラオはモーセを呼び、主に赦しの祈りをするよう頼んだが、それはもうできなくなることを意味するので、実は救いの希望を放棄する宣告だった。モーセは「エジプトの地の長子は、王座に着いているファラオの長子から、ひき臼のうしろにいる女奴隷の長子、それに家畜の初子に至るまで、みな死ぬ。」と、最後の災いを予告してファラオの前を去った。(11:4?6)
- モーセはイスラエル人に対して、主に命じられた過越の儀式を教えた。家族ごとに羊を屠り、血をかもいと門柱に塗る。主の使いがエジプト中の家々をめぐる時、血の塗られた家の前は通り過ぎる。しかし血の塗られていない家には入り、その家の長子を殺すのだ。
2.過越の儀式は子孫への教育のため。(24-27)
- 過越の儀式はこの時だけで終わらず、以後、継承するようにも命じられる。それは子孫に主の救いを教えるため。儀式を体験することで、子達に問いの機会を与える。そうして過越の意味を問い直し、自分の救いのための出来事だったと感じるようになる。
- 過越はキリストの十字架のあがないをも預言している。屠られる羊はキリストで、血を塗ることはキリストを信じることに当てはめられる。主の使いが通り過ぎたように、キリストを信じる者は、罪が裁かれずに赦される。ヨハネ3:18には「御子を信じる者はさばかれない。」とある。主イエスは過越の食事の時に最初の聖餐式を行われた。キリスト者は聖餐式を行うことで、「この儀式の意味は?」と問う機会を与え続けている。
3.主のことばに従った者と無視した者の結果。(28-30)
- イスラエル人は命じられた過越の儀式を実行し、家のかもいと門柱に血を塗った。彼らは守られた。しかし、血の塗られていないエジプト人の家の長子は皆死に、国中に泣き叫びが起きた。血を塗ることは、主を信じ従うことを意味している。主はご自分を信じる者を、信じない者とを明確に区別されるのだ。
4.解放の約束の実現。(31-33)
- ファラオは顔を見るなと自分で言ったモーセ達を呼び寄せ、「出て行け」と命じた。もはや何の条件もつけず、全員、家畜も連れて行ってよいと。これは大きな変化。変わりようがないと思われたファラオも、我が子の死で心が大きく揺さぶられたのだ。
- ファラオだけでなく、エジプト人皆が、イスラエル人にエジプトから去るさるように迫った。それまではイスラエル人は貴重な奴隷だと思ってきたが、自分自身も殺されると思い始めたから。ついに本気で恐れるようになったということ。
- 主の裁きは厳しい。まだ最終的な裁きが行われていないうちに、悔い改めなければならない。
神は言われます。
「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」
確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。 第二コリント 6:2 - この恵みの時がまだある間に、「なぜキリストを信じるのか?」と人々に問わせることが、キリスト者の使命である。
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