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2018年3月4日 主日礼拝
1.家臣たちの忠言(1-7)
- いなごの被害は、エジプト人たちも経験があっただろう。乾燥地に大雨がふると、一時的に緑に覆われ、いなごのような虫が大発生するときがある。やがてまた乾燥状態になると緑が枯れ、食料を求めてイナゴが大群で移動してくることがある。
- これまでモーセが告げた災いはみな実現した。イナゴの大群に襲われれば国が滅びると家臣は恐れ、王に忠言した。王の怒りにふれれば家臣といえども首が飛ぶので、相当の覚悟があった。正しい見通しを持ち、真に役立つ忠言をしたい。
2.身を低くできないファラオ(8-11)
- ファラオはモーセを呼び戻した。しかし王は用心深く、行くのは誰と誰かと尋ねた。
- モーセは皆で行くと答える。王は奴隷であるイスラエルの民が去ることを阻止するため、人質をとりたいと、妻子は置いていけと言い捨て、追い出した。
- ファラオは身を低くできない。自分が王であって、従うのはお前たちだという態度を変えられない。自分より偉大な神の前にいるということがわかっていない。
- 私たちも、自分が自分の人生の支配者だという意識があるのではないか?自分より偉大な神の守りと助けの中に生かされていることをわきまえなくてはならない。
3.「もう一度だけ」という願いは、何だったのか?(12-20)
- 実際にイナゴに襲われると、ファラオの態度は一変し、追い出したモーセとアロンを呼び寄せ、赦しを乞う。
- 「もう一度だけ」には、これまでも罪を赦してもらったという意味がある。また、裏切ったら、裁かれて当然だという理解も見える。ファラオは、もう裏切らないつもりだった。
- ここでモーセは、もっと用心深く、裏切れないような条件をつきつけることもできたはず。しかしそうはしなかった。なぜか?
- この問いは自分にもあてはめることができる。私たちも「もう一度だけ」と、幾度も主に願うことがあるのではないか?主はそれに対して、意地悪く「見え透いている」と突き放されるのだろうか?
- このとき、主が見え透いた詫びを受け入れられたのは、次の災いがあるから。私たちも、十分な悔い改めでなくても、苦しみから解放されることがある。ファラオの経験から学ばなくてはならない。
4.「二度と顔を見るな」と凄むのはなぜなのか?(21-29)
- 暗闇の災いで、ファラオは譲歩を申し出る。妻子を連れて行ってもいいと。家畜だけは残し、それを担保にしようという譲歩。
- 主との関係で譲歩を考えることはないだろうか?「神様、これはやめます。でもこれだけはやめられません。」「これはします。でも、これだけはできません。」などと。
- 主は私たちが主を信頼して、無条件に従うことを求めておられる。譲歩は主と対等の関係になろうとすること。引き下がっているように見えて、実は高慢。
- 家畜も連れて行くと言われ、王は激怒し、自分で呼び寄せたモーセたちに「2度と自分の顔を見ないようにせよ」と言い放つ。
- あくまでファラオは、自分が主導権を握っていたい。そこだけは絶対に離さない。それが彼の本音。
- 私たちにも同じ本音があるのではないだろうか?突き詰められると凄むような本音が。
- モーセはファラオのことばをそのまま用い、二度と見ないと約束する。しかし、それは、もう赦しを求めることもできないということ。
- 赦しを求められるのは救いの時。時をのがしてはならない。
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