2015年12月13日 主日礼拝

ヨハネの福音書 1章1~13節
國分広士牧師

1.ヨハネは光ではなかった

主イエスの公生涯が始まる前に、バプテスマのヨハネが、人々に神への悔い改めを教え、多くの人が信じて悔い改めのしるしとしてバプテスマを受けた。彼によって人生が変わった人も多かったが、彼は光そのものではなく、光を指し示しただけだった。真の光は、この世界といのちを創造された神なのである。

2.まことの光は主イエス

真の光である神が、人となってこの世界に生まれてくださった。それが主イエス。神は人を真剣に愛されたので、遠い天から見つめるだけでなく、人生の苦しみも味わって人間に共感するために、人となられた。(ピリピ2:6-8参照)さらに、人間の罪の刑罰を身代わりに受けるためにも、人とならなければ、「死ぬ」ということができなかった。いのちそのものである方が死ぬというのは、どんなに恐ろしいことだったことか。

3.主イエスを信じる者は神の子どもとされる

神が人に与えた光は、本当の希望だった。なんと被造物にすぎない人間を、神の子どもにしてくださるというのだ。養子に迎えられるという意味である。そこで神が人間に求められるのは、主イエスを「信じる」ということだけである。何か難しい真理を悟ったり、偉大な行いをしたりという条件などない。信じるのは、幼いこどもでもできること。どんな人にも救いの機会があるのだ。まことの光は主イエスなのである。