2015年11月8日 主日礼拝

創世記 31章17~55節
國分広士牧師

1.逃げた

ヤコブはラバンの引き留めを恐れ、こっそりと逃げた。まともに話が通じる相手ではないが、「逃げ」には問題が付きまとう。結局、ラバンは追いかけてくるし、どさくさにまぎれて、妻のラケルが盗みをする。テラフィムは持ち運びできる小型の偶像。金などの貴金属で作る事が多く、実際的にも芸術的にも宗教的にも価値があった。しかし、盗みは罪であり、偶像崇拝も罪。ラケルは密かに罪を犯す性悪なところがあったのだ。

2.神のとりなし

逃げられた側は納得できない。ラバンは自分本位の難しい人物だが、親としての愛情もあるし、神の声も聞いている。こうした複雑さを抱えているのが、実際の人間の姿。ヤコブの強引な決断によって事は始まったが、成功に至るには、神のとりなしが必要だった。ラバンに夢で語る主のことばは、ラバンの行動を過激にならないように戒めた。

3.神こそが証人

女と主が話している間に娘の死の知らせ。この最悪の時に「恐れず信ぜよ」と主は求める。マタイ9:18のヤイロのことばはこの時に発せられたのだろう。それは主を本当に信じる告白。イエス様は、真の告白へとヤイロを導くことも考えた上で、立ち止まったに違いない。主は「こどもよ起きなさい」と言われ、娘を生きラバンは別れのセレモニーとして、石塚を築き、主の名によって誓い、娘たちに別れを告げた。逃げて終わらずにきちんと幕を引けたのは幸い。でなければ、いつまでも後悔が残っただろう。神は、難しい人間たちを、それぞれきちんと見守り、正しく導く。神こそ証人。偉大なお方に見守られている事を感謝し、従おう。返らせた。すべてが解決したとき、不条理ではなく摂理であったことがわかった。
待たなければならない苦しみは、心焦るヤイロと同じような経験。苦しみの最中にいるときこそ、愛をもって導いてくださっている主を、信じよう。