2015年11月1日 主日礼拝

ルカ 8章49~56節
國分広士牧師

1.ヤイロの痛み

ヤイロ会堂管理者だが、死にかけている娘のため、イエス様に懐疑的な律法学者たちの視線も無視してイエス様に助けを求めひれ伏す。主が彼の家へと向かってくれて喜んだのもつかのま、人ごみでなかなか進めず心焦る。しかも突然「誰が触ったか」と、急ぎでもないように思えることのために主は立ち止まってしまう。ヤイロの心中を察すると気の毒。

2.長血の女への助け

彼女の痛みは人前に出られない病。その病で彼女の人生はめちゃめちゃになった。この時は彼女にとってのチャンス。「人ごみにまぎれてそっとイエスの着物にさわるだけ。」誰にも非難されず迷惑にもならずに済むと思っていた。期待通りに病は治る。しかし主が自分を探すのは計算外。「早く行ってくれればいいのに。自分のことなど放っておいてくれればいいのに。」と勝手なことを思うが、主は彼女のために立ち止まる。さわることより、正直に告白することこそが彼女を救う。主は私たちにも、告白を求めておられる。

3.恐れず信ぜよ

女と主が話している間に娘の死の知らせ。この最悪の時に「恐れず信ぜよ」と主は求める。マタイ9:18のヤイロのことばはこの時に発せられたのだろう。それは主を本当に信じる告白。イエス様は、真の告白へとヤイロを導くことも考えた上で、立ち止まったに違いない。主は「こどもよ起きなさい」と言われ、娘を生き返らせた。すべてが解決したとき、不条理ではなく摂理であったことがわかった。
待たなければならない苦しみは、心焦るヤイロと同じような経験。苦しみの最中にいるときこそ、愛をもって導いてくださっている主を、信じよう。