2015年5月31日 主日礼拝
1.赦すことは難しい
ペテロが「何度まで赦すべきか」と尋ねたのは、人を赦したいという願いはあるが、実際に赦すことには難しさを感じているからだ。簡単なら何度でも赦せる。しかし現実には、罪を犯されれば憎み嫌うし、赦してばかりでは罪を助長するようにも思える。回数が決まっていれば考えやすいと思いペテロは七度までかと尋ねた。しかし、回数で線引きをするのは、表面的な赦しであって、心からの赦しではない。
2.神は寛大に赦す
主イエスは「七度を七十倍するまで」と言われたが、これは回数を度外視した赦しという意味。この教えを語るため、主は莫大な負債を赦した王と赦されたしもべというたとえ話をした。一万タラントは約6千億円。払いきれない負債ということ。へりくだって願う者を主は赦してくださる。そして赦しのために代わりに負債を負ってくださるのだ。
3.「赦せない」罪を悔い改めよう
100デナリは約100万円。簡単には赦せないレベルの負債ということ。6千億円に比べれば60万分の1にすぎないが、それでも100万円を赦すことは難しい。それほど私たちの心は自己中心であり、これこそ罪の正体。自己中心だから、自分は赦してもらいたいのに人は赦そうとしない。王は「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべき」と怒り、彼が仲間にしたのと同じ刑罰を下した。人を裁く思いが自分を裁くことになる。自己中心をの罪を告白し、主の赦しを求めよう。