2014年4月6日 主日礼拝

創世記 3章6~13節
國分広士牧師

1.裸を隠した

記録上、人間の最初の創造物は「腰のおおい」。動機は恥ずかしさ。善悪を知った人間の発見は「自分のみじめさ」。せめて自分の一番弱い部分を覆うものが欲しいと作った。しかし、それは真に役立つ物ではなかった。人は恥ずかしさを覆うために無駄な努力をしやすい。恥ずかしさは罪責感からきているのだから、神に悔い改めるべきだった。

2.身を隠した

神はいきなり叱らず、少し遠くから声をかけた。人が自首する機会を与えたのだ。しかし人は神の顔を避けて身を隠した。神からは丸見えなので、これも無意味な行動だったが。隠す行動は、真実を受け入れられない思いの現れ。自分の罪を認めない限り、隠れ続けなければならない。それで神はあえて「どこにいる?」と尋ね、自分から謝る機会を与えた。

3.言い逃れようとした

神への人間の返答は、心を閉ざし謝ろうとせず、誰が一番いけないのかという責任転嫁でごまかそうとしている。「女が」「蛇が」と、自分以外に責任をおしつけられれば、真の理由などどうでもいいという態度。12節の言い逃れの真意は「神こそ悪い」ということ。これこそ罪の本質。神を信じるのか、うらむのか。その差はあまりに大きく、どちらになるかで救いか滅びかも決まる。自分の罪を悔い改め、神を信じる者になろう。