2013年11月3日 主日礼拝

ヨハネの福音書 9章1~3節
國分広士牧師

1.なぜ目が見えないの?

生まれつき盲目の人について弟子は「なぜ?」と思った。それは盲目はかわいそうだと思うからなのだが、その痛みの感情のやり場を、「自分がいけない」とか「親がいけない」といった、犯人探しに向けてしまった。それはかえって非情。素直に「かわいそうに」と言うべき。

2.悲劇なのか?

弟子達は盲目は悲劇であり、絶望的だと思った。だからせめて悪い事が繰り返されないように教訓を学ぼうとした。盲目の牧師の影山師は、「目が見えないのは不便だが、不幸ではない。」と語った。自分では乗り越えられないハンディは、確かにその人の生き方を制限する障害だが、障害がなくても不幸な人はたくさんいる。その障害があるからこそ経験する喜びもある。

3.神の業が現れるため

イエス様は、弟子達の冷たさを叱るのではなく、もっと大きな可能性に目を開かせた。「神のわざが現れるため」とは、なんとすばらしい逆転だろうか。不幸にしか思えない出来事に直面しても、その悲しみを喜びに変える事ができる、偉大な神がおられる。自分の直面している現実をしっかり見つめ、問題があるなら、その必要を神に訴えよう。神は一番良いことをしてくださることを信じよう。