2024年4月28日 主日礼拝

マタイ15:21-28

國分広士牧師

  • 主イエスに信仰をほめられた人は珍しい。別の箇所で弟子たちは「信仰がない」と叱責された。彼女の発言に注目してみよう。

1.信仰 「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。」(22節)

  • 「カナン人の女」ということは、ユダヤ人ではなく異邦人。異邦人宣教は、主イエスの召天後に弟子たちによってなされるので、まだ時ではないので、主イエスは積極的に関わろうとはしなかった。それでも主イエスに求め続けた女の姿勢に注目したい。無応答に思われる時にも求め続けたのは、彼女がイエスを「主」すなわち神。「ダビデの子」すなわち救い主と、信じていたから。他には求めるべき相手はいない。主イエスにしか望みはない。そう思っていたのだ。

2.正直 「主よ、私をお助けください。」(25節)

  • 彼女は「私を」と言った。「私の娘を」ではない。自分のことを求めるよりも、人のことをとりなす方が、高尚であるように私たちは思いやすい。しかし、自分の願いを「とりなし」として言い換えているのは、自分の思いを正直に告白できないからなのかもしれない。カナンの女は、もちろん娘を愛しており、愛する娘のために主イエスのところまで求めに来た。しかし「私ではなく、かわいそうな娘をお助けください」とは言わず、正直に「私を」と願った。

3.期待し続ける「主よ、そのとおりです。でも…」(27節)

  • ついに女に返答した主イエスのことばは、冷たく聞こえる。彼女の境遇に共感しているようには思えない。「こども」はユダヤ人。「子犬」は異邦人を指しているように聞こえる。まずユダヤ人に福音を伝えることが自分の使命であり、こどもの食事が済んだ後に、残飯を子犬にあげるのが道理だという趣旨。
  • 注目すべきは女の返事。素直に「主よ、そのとおりです。」と答えたのだ。反論したり、開き直ったりしない。しかし、あきらめたのでもない。
  • 彼女は「ただ子犬でも」と求め続けた。まだこどもの食事中で、おあずけ状態の子犬でも、こどもが食卓から落としたパン屑はいただくと。この機転の効いた返答は、主イエスの「子犬」発言に誘発されて出てきた。
  • 彼女は自分が子犬扱いされたことを怒るのではなく、むしろ積極的に受け止めた。子犬は危険視されず、主人の食卓の下に居ることができる。こどもがうっかり落としたパン屑を拾い食いしても蹴散らされはしない。恵みをいただける可能性を彼女は見出したのだ。

  • 主イエスを信じ、正直に、謙虚に、どこまでも主に期待し続ける姿勢を、主イエスはほめた。一見冷たい主のことばが、女のすばらしい信仰のことばをひきだしたことは、驚くべき。主は、ほむべきかな。