2024年9月1日 主日礼拝

イザヤ書60:1-3

國分広士牧師

激暑中は陽光を避け輝きたくなかったが、ここしばらく台風の影響で長雨が続き日の光が恋しい。主の光に照らされ輝けという、みことばを学ぶのに良い日で感謝。

1.光源は主 

  • 自ら光を発しない者が輝くには、何かの光源に照らされる必要がある。2節「あなたの上には主が輝き」。19節「太陽はもはや、あなたの昼の光とはならず、月の明かりもあなたを照らさない。主があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの輝きとなる。」。光源は主である。
  • 「起きよ」とは、主に照らされて輝くために立てということであり、悔い改め主を信じるように呼びかけているのである。

2.今はまだ輝いていない 

  • すでに輝いているなら、わざわざ呼びかけはしない。今はまだ輝いていないから「輝け」と呼びかけているのだ。2節「闇が地をおおっている。暗黒が諸国の民を。」イザヤの時代はアッシリアの脅威と、宗教的堕落という闇で覆われていた。
  • 今も世は闇である。エネルギーの使いすぎによる温暖化。二酸化炭素を出す代わりに、処理できない核のゴミを排出し続ける原子力発電。民族間や宗教間の対立による紛争や戦争が拡大激化。いつ実戦に使われるかわからない核兵器。小国が大国に対抗して核爆弾を保有し始めた問題。少子化と人口爆発。富の一極集中化と貧困問題。どの問題も深刻であり、人類の滅亡さえ予感させられる。にもかかわらず、人々は問題の解決よりも今の豊かさを求め、さらに問題を助長させている。
  • 誰もが何らかの問題の被害者であると同時に、何らかの問題の加害者である。問題に胸を痛め解決を呼びかける人々も、確かな解決策を持ってはいない。まさに闇である。闇が地をおおっている。
  • 闇の中にいる者が輝くには、闇を照らすことができる強い光源に照らされるしかない。

3.「あなたの光」「あなたの輝き」

  • 闇の世にいるのにもかかわらず、主を信じる者の上で主が輝くので、その者は闇の世の中で輝く。
  • 闇の中で主の光が輝く。主に照らされて輝く主の民は、主に望みを置くようにと人々にあかしをする存在になる。
  • 輝いて見えるとはいえ、主の民自身は光源そのものではない。自分自身の内に、深刻な問題への解決策や、解決の実行力があるのではない。思い上がってはいけない。真の望みは主ご自身。
  • 第2コリント 3:18には「私たちはみな、覆いをとり除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。 」ということばがある。
  • 昔の鏡は金属板の表面を磨いたものなので、いつも曇りを磨いてピカピカにしておく必要がある。主を信じ主に心を向ける者は、主の光を反映する。しかし罪はサビのように曇らせる。
  • 鏡に「覆い」がかぶさっているなら、鏡の存在すらわからない。「覆い」とは、主の光を放つモーセの顔を、民が恐れるので、皆の前では顔を覆っていた経験。(出34:33-35)しかし「覆いをとり除かれた顔」と言われているので、覆いはとり除かれなければならない。
  • さらに「主と同じかたちに姿を変えられていきます」と言われている。「変えられていきます」と受け身なので、自己変革ではない。「御霊なる主の働きによるのです。」と言われている。
  • この変化を神学用語では「聖化」と言う。
  • イザヤの「輝け。」ということばも、まずは主の光を反映して輝くのだが、主に変えられ、心に聖霊を宿し、ついにモーセのようにその人自身が輝くという望みも含まれる。主の民自身が、主が歩まれたように生きるなら、主をあかしする存在になるのである。
  • 主イエスは闇の世に来られ、人々の罪を悲しみ、その罰を身代わりに受けられた。その姿が私たちの目標である。主の民は闇に沈む全ての人々のためにとりなし、主に救いを求め祈る責任がある。そして人々のためになすべきことが主から示されるなら行う。その姿があかしとなる。 

私たちはまず、起きよう。主を信じて罪を悔い改めて立ちあがろう。そして主の光を反映させていただこう。主の御霊を心に受け入れ、主のことばに従って歩もう。そこから、どう用いられどう変えられるかは主の導き次第。私たち自身にできるのは、「信じ・悔い改め・従う」こと。なすべきことをさせていただこう。