2023年8月20日 主日礼拝

イザヤ書 22章12~14節
國分広士牧師

序 「幻の谷についての宣告」

  文脈からエルサレムへの宣告とわかる。(10節等)
  4節では「この民、娘の破滅」とある。 

1.浮かれ楽しむ人々

  • 1節「屋根に登って」エルサレムの家屋は屋上を生活スペースとして活用していた。13節には、飲み食いして楽しむ様子が書かれているので、屋上でバーベキューパーティーをしているような光景があった。
  • 何を楽しむのか。8-11節には「宮殿の武器」「城壁を補強」「貯水池を造って」といった、エルサレムの町の防御体制が記されている。自分たちは安全な場所にいるという安心感、達成感が楽しみの根拠だった。
  • 「どうせ明日は死ぬのだ」ということばも気になる。人生は楽しんだ者勝ちだという意識は現代人にも強い。「神の裁き」や「永遠のいのち」を信じない人にとっては、今の命が全てなので、今のうちに楽しまないともったいないと考えてしまう。
  • 現代社会は明日のことを考えずにエネルギーを使いすぎている。原子力発電所も造り核兵器も作っている。それらが将来に大問題を残すことを知りながら使い続けるのは、「どうせ明日は死ぬのだ」という態度。しかし聖書はそうは教えていない。
  • 主イエスは「明日のことは明日が心配します」と教えたが、それは「明日がない」からではなく、昨日も今日も明日も全て主の手によって導かれて確かにあるからである。明日はある。だから今日の歩みが大切なのである。

2.泣いて悲しみなさい

  • 破滅が近いことを主は知っておられる。今日は、浮かれ騒ぐのにふさわしい日ではないのだ。むしろ「泣いて悲しみ、頭を剃って粗布をまと」って、主に哀れみを求めるべき日なのだ。ヨナ書によると、イスラエルを苦しめるアッシリアの都ニネベは、預言者ヨナによって、主が滅びをもたらすと宣告された時、王が率先して粗布をまとって悔い改め、民もそうしたので主は災いを思いなおされた。
  • どんなに楽しい時を過ごせたとしても、滅びの時が来たなら、「バカだった。あの時に浮かれていないで主に祈るべきだった」と後悔することになる。

3.万軍の神、主が呼びかけた

  • 呼びかけておられるのが万軍の神、主であることを理解しよう。主は裁きとして破滅させることも、破滅を免れさせることもできる。滅びる者を救い、破滅した後にも復活させることも、主にはできる。全てを造り、全てを正しく裁かれる主の権威の前にひれふそう。
  • このことばを聞けたのは、まだ滅びの前だから。まだ悔い改める機会がある。この時に主の前にひれふそう。