2023年6月4日 主日礼拝

イザヤ書 9章6~7節
國分広士牧師

1.キリスト預言

  • イザヤ書は紀元前700年頃に書かれた。主イエスの時代より700年ぐらい前になる。イザヤ書にはたくさんのメシヤ(ギリシャ語ではキリストで救い主のこと)預言が記されている。イザヤ自身は後の時代のイエス様のことは知らないのだが、神によって預言者として召されていたので、イエス様についても神に示され預言した。
  • 預言とは「預かったことば」。神から預かったことばという意味。将来を見て語った場合は「予見」ということばでも表現される。預言は将来の予見だけでなく、私たちが知るべき神の意志のメッセージである。
  • メシヤ預言は、語られた時代から見れば将来の出来事を多く含むため、そのことばは謎めいている。おそらくイザヤの時代に人々が聞いた印象は、現代人がイザヤ書を読んでうける印象とは、違う面があるだろう。新約聖書に記されたイエス様の姿を知る者にとっては、イザヤの預言はイエス様について語っていると素直に思える。
  • しかし、まだ知らないお方を、やがて来たる救い主として待ち望む姿勢は、信仰的である。信仰には、将来の出来事が必ず起きると信じる面が伴う。まだ見ていないことを信じるという面がなくなれば、単なる「理解」である。神が私たちに求めるのは、「神を理解すること」だけでなく「神を信じること」である。だから神の教えに、まだ実現していない将来の約束が含まれるのは必然なのである。

2.ひとりのみどりごが私たちのために生まれる

  • 神は私たちに救い主を与えてくださると約束された。その約束は人間が最初の罪を犯した直後にすでに与えられていた。(創世記3:15)
  • やがてその約束はアブラハムに受け継がれた。さらにその約束はダビデに受け継がれ、彼の子孫から救い主が生まれることが預言されていた。だから救い主は「ダビデの王座に就」く。
  • 彼は「みどりご」として生まれるので、人間である。しかし単なる人間ではない。その名は「不思議な助言者」「力ある神」「永遠の父」「平和の君」と呼ばれる。この呼び名にふさわしい人などいるのか?
  • 新約聖書のイエス様を知る者は、まさにこの呼び名は神のみ子であるイエス様にふさわしいと感じる。ピリピ2:6-8参照
    6,キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
    7,ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
    8,自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
  • 「限りなく」や「とこしえまで」という表現は、再臨のキリストにおいて実現する。この部分はまだ将来の出来事なので、私たちも「将来の約束が本当に実現すると信じる」という信仰が問われている。

3.万軍の主の熱心がこれを成し遂げる

  • 神はなぜ、罪人を救うために、み子であるイエス様を赤ん坊として生まれさせたのか?無力な存在になることは、神の偉大さを捨てることではないのか。
  • ヘブル4:14-15参照
    14,さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
    15,私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。
  • 実体験として人間になられ、人間の現実を知った上で、主イエスは人間を救うために十字架にかかられた。罪人の弱さに同情できる方になるためだった。この自分を低くする姿に、主の熱心を感じる。