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2022年10月23日 主日礼拝
1.復活を否定する者たち
- サドカイ人とパリサイ人の考えの違いについて、ルカは使徒23:8に記している。「サドカイ人は復活も御使いも霊もないと言い、パリサイ人はいずれも認めている」パリサイ人の方が考えとしては近い。
- サドカイ人は復活を否定するため、主イエスに難問をぶつけた。伴侶の死別で複数回結婚した女性は、復活後に誰の妻なのかと。復活後も現生と同じ社会生活があるという暗黙の前提から起きてくる疑問。実は復活後の世界については聖書も多くを語らないので不明点が多い。ここで語られた主イエスの教えは貴重。
2.復活の子・神の子
- 主イエスはサドカイ人に「大変な思い違いをしています(マルコ12:27)」と言いつつ、正しい神観を教える機会として語られた。
- 「ふさわしく…ふさわしいと認められた人たち」(35)ということは、復活は神が決定すると言うこと。復活を神の意志と無関係な現象と見てはいけない。いや、「現象」でさえ、全て神の意志の下にあると考えるべき。
- 「めとることも嫁ぐこともない」結婚はこの世における大きな祝福だが、次の世は今の世とは違う。「生めよ増えよ」という創世記の神のご命令は、今の世における命令。復活後は、もう死ぬことはあり得ない。
- 「御使いのよう」「復活の子として神の子」と言う表現は、御使を否定する人には理解困難。同じ前提に立たない限り理解の一致はない。
3.神にとってはすべての者が生きている
- サドカイ人もモーセ五書を聖典として受け入れる。モーセにとって、アブラハム・イサク・ヤコブは先祖であり故人。しかし神に「アブラハムの神」と語りかけたのは、モーセはアブラハムは今もその神に仕えていると意識していたことを示す。それは復活を前提にした信仰。
- いのちを与えるのは神。神が「あれ」と言われれば、光でもなんでも生じる。人間もちりから造られた。復活がないということは、神も死には勝てないと言うこと。死はいのちに優るということ。現代人も「死ねばおしまい」と同様の死生観を持っている。
- 復活を信じるかどうかは、真の造り主として、神を信じるかどうかという問題。もしも復活を信じないなら、神が世界を創造できたのは偶然で、二度とできないということになる。
- 主イエスは「生きている者の神」と言われた。造られ、生かされている方が「神」。「わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)と言われた主イエスを信じよう。
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