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2022年10月16日 主日礼拝
1.「ザアカイ」という名の人
- 主イエスはエリコの町の中を通る。エリコに入る前から主イエスの周りには多くの群衆が集まっていた。町に入る直前には、盲人の物乞いが目を開けていただき、神をあがめながら付いて来ている。まるで王が勝利を得て凱旋する時のように、一目見ようとする群衆が集まっていた。
- その中にザアカイもいた。しかし背が低いので人垣の後ろからでは全く見えない。そこで先回りして木に登って待ち構えた。計算が早く行動力もあった。おそらく同様な行動をとる人々は他にもいただろう。
- そこには多くの人々がいたが、主イエスは木のところで上を見上げ「ザアカイ」と呼びかけた。また「あなたの家に泊まることにしている」とも言われた。たまたま出会ったように見えて、実は計画的に彼と出会うように、時が定められていた。主のみわざはこのように、奇跡に満ちている。
- ザアカイは喜んで主イエスを家に迎えた。それが彼の転機となる。
2.財産より大切なこと
- 18:24「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう」と主イエスは言われていた。しかしザアカイは「財産の半分を貧しい人たちに施し」「脅し取ったものは4倍にして返す」と申し出た。レビ6:1-7によると、脅迫して取った場合の償いは「2割増し返却」。(民5:6-7も同様。)「4倍返し」は出エジ22:1を見ると羊を盗んだ場合の償いに相当する。(Ⅱサム12:6も同様。)
- 計算が早く行動力のあるザアカイのことなので、全財産を失う覚悟がなければ、この申し出はできなかった。
- ザアカイにとって、主イエスが自分の客、すなわち親しい友になってくださったことは、財産より価値があった。主イエスとの信頼関係を継続するには、本気で悔い改めることが必要だと思ったのだろう。
3.人の子は失われた者を捜して救うために来た
- 15:4で、いなくなった一匹の羊を捜し歩く羊飼いのたとえを話されていた。その羊飼いとは主イエスご自身。エリコに来たのは、「失われた羊」として、ザアカイを救うためだった。
- 主イエスはザアカイが悔い改めるとわかっておられたから、彼の家に泊まることにしていた。実際の悔い改めの告白がなされる前から、救いのみわざは始まっていた。
- 「取税人のかしらで金持ち」として生きていたザアカイが、主の捜す失われた羊であるとは、だれも思わなかっただろう。しかし、ザアカイほどの見事な悔い改めをする人も珍しい。結果から逆算すると、ザアカイは「埋まっている宝物」のよう。宝捜しをしているように、主イエスはわくわくしながらザアカイのところに来たように思えてくる。
- 詩篇51:17
神へのいけにえは砕かれた霊。打たれ砕かれた心。
神よあなたはそれを蔑まれません。 - 主は今、誰を捜しているだろうか?誰を救うつもりなのだろうか?自分ではないのだろうか?ザアカイのように主イエスを心に迎えよう。
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