2022年3月6日 主日礼拝

レビ記 18章24~30節
國分広士牧師

1.身を汚す行い

  • 17-18章には、身を汚す行いが列挙されている。「非正規な礼拝」「血を食べる」 「偶像崇拝」「近親相姦」「不倫」「同性愛」「獣姦」等。
  • イスラエルが占領するカナンの地の民は、それらの問題で汚れている(24)。30説には「忌み嫌うべき掟」という言葉もある。つまり身を汚す行いが正当化された社会だったということ。イスラエルが彼らを滅ぼし追い出すことになるのは、彼らへの罰である(25)。
  • そこに住む人の罪によってその地も汚れる。地は、悪いものを食べた人が嘔吐するように、地を汚した人々を吐き出す。それは神の裁きがあることのしるし。
  • 現代人も身を汚す行いを行なっている。悪いことと思わず、むしろ積極的に楽しんで行なっている。人間は文明を発達させ、自分たちの望むことを実現してきた。だが望まない副産物もたくさん生まれた。エネルギーを多用することで豊かな暮らしを実現したが、環境が破壊された。ヒューマニズムは人間の欲望まで肯定し、快楽の追求を是認して自己満足を得たが、快楽の追求は人間関係を壊したり、自分自身の身体や精神を崩壊させている。自国の安全保障のために、隣国に攻め込み多くの人のいのちを奪う戦争も始まったが、周囲の憎しみを買っているのでむしろ自ら危険に向かっているように見える。
  • いつか許容限界がくる。その時、地が人を吐き出す。

2.主の掟と定めを守る

  • カナンの地の民だけの問題ではなく、イスラエルの民も、身を汚せば吐き出される。だからこそ、主は「掟と定め(26)」、すなわち律法を与えた。神はイスラエルを吐き出したくないのだ。イスラエルも汚れれば吐き出される。だから彼らが汚れないように、許容範囲にとどまるように、掟と定めを示したのだ。律法は主の望まれることを示す。人の望みと主の望まれることが食い違うなら、主の望まれることを優先するように教えている。
  • 「守る」という表現だけでなく、30節には「わたしへの務めを果たし」と積極的な表現もある。「○○をしない」という消極的な姿勢を続けるのは難しい。我慢には限界がある。積極的に主が喜ばれることを行うことで、結果的に禁止事項に触れない生き方をすることの方がずっと良い。「主が望まれる生き方をしたい」という良い願いが私たちを守る。

3.「わたし」と繰り返す主の望まれることを求めよう

  • 人間の行いは必ず人間自身に何らかの結果をもたらす。他人の愚かはすぐ気がつく。しかし自分自身はどうだろうか。私たち自身は、自らの身を汚してはいないだろうか。主が吐き出したいと思うような存在になっていないだろうか。
  • もしも「主が望まれる生き方をしたい」という願いより「自分の望みを実現したい」という思いが強いなら危険。悔い改め、神に国とその義を第一に求めよう。(マタイ6:33)