2022年3月13日 主日礼拝
1.主の自己主張
- 主は幾度もご自分を主張される。1-4節の中だけで4度も「わたし」と言われる。さらに19章全体では16回も「わたし」を主張し、ご自分の権威を強調している。私たちに無条件で従うよう訴えているのだ。
- 全ての教えの基礎は神の権威にある。誰が語り、誰が命じているのかが決定的に重要なのだ。真の権威者のことばだから、従うことに意味があるのだ。
- 権威に訴える論法は嫌われる。歴史は権威者の横暴に振り回される苦い経験を繰り返してきた。今、ロシアは大統領が反論を許さない権威をふるって横暴な戦争を続けている。だが、嫌われる反面、人はいつでも「あの人が言っているなら間違いない」と信じられる権威を求めている。何がよい道なのかを判断する基準は、結局は何らかの権威。偽りの権威を嫌うのは、真に信頼できる権威を求めているからにほかならない。
2.聖なる者であること
神が聖だから、神に従う者も聖であることが求められる。聖とは、俗と区別されるものということ。神はこの世とは異なるご性質を持っているので、聖である者も、世俗とは異なる生き方が求められる。その聖なる生き方として、4節までに3つの具体的な事柄が命じられている。
(1)父と母を恐れる。
両親を大切にすることは世俗の思想にもあるが、「恐れよ」とまで強調する点が大切。幼いうちは親を恐れても、青年期には逆らい、親が老いれば子が保護する立場になるので、成人になっても親を恐れるなら精神的トラウマを抱えているように思えてしまう。しかし親を尊敬できない人は自己否定に陥りやすく、精神的には不健全。父と母を恐れることが敬老につながる(32節)。
(2)安息日を守る。
安息日は主の日である。主こそ全てである告白として、安息日は主のご命令に従い仕事は休む。使用人も家畜も休ませる。「そんな暇はない」と安息日に働くのは主より金が大切だから。現代社会は、24時間365日休まないという罪を犯している。このつけは何らかの形で必ず払う。環境破壊や富の一極集中はその一例。安息日を守り「休む」ことは隣人愛に繋がる(9-10,13-14,16-18)。
(3)偶像に心を移さない。
現代人も多くの偶像を持っている。今も実際に多くの偶像が作られ、人々はそれを拝んでいる。宗教的な体裁を持っていなくても、「成功」をもたらすと期待され実質的な偶像となっている理論や思想もある。
偶像は拝む側の都合で生み出される、自己正当化の道具。自己中心は自分と異なる生き方考え方の人々を軽蔑し、民族対立、紛争、戦争などを生む。
あなたがたの神
- 主は幾度もつまずき逆らってきたイスラエルに対して「わたしはあなたがたの神である」と幾度も訴える。不出来で根性の曲がった者を愛してくださる。「隣人を自分自身のように愛せ(18,34)」と命じられるのは、神ご自身が愛の方だから。愛の神が私たちの神だと力説してくださることに、感謝しよう。