コンテンツへスキップ
ナビゲーションに移動
2021年10月3日 主日礼拝
1.献金箱の観察
- 主イエスは献金箱の向かい側に座って、献金を投げ入れる人々を見ていた。なぜか?理由は書いてないが、献金する人々の信仰をご覧になるためと思う。献金はその人自身にとっては、神様に向き合う時。神様は、誰がどういう気持ちでいくら献げたのかをご存知。少しけちって少額を献げたことも、逆に奮発して多額を献げたことも、神様は全てご存知。だからこそ、自分の意思で献げる額を決め、自分で決めた通りに入れることが、神様への信仰の現れとなる。
- 「多くの金持ちがたくさん投げ入れていた」のは、壮観。しかし見えの張り合いであったなら虚しい。見えなら神でなく人の目を気にしている。多くの金持ちが並ぶ献金者の中に、レプタ銅貨を二枚投げ入れた貧しいやもめがいた。
2.誰より多くいれた人
- 彼女は貧しいからといって、金持ちたちに引け目を感じないで、献金者の列に加わっていりた。衣服でやもめとわかるし、貧しさも隠せない。金持ちたちの派手な献金に比べると、彼女のわずかな献げものはあってもなくてもよい金額。気恥ずかしさが勝れば、同じ列には並べない。でも彼女はそうはしなかった。人の目ではなく、神様を意識していたのだろう。
- 彼女は1レプタにしてもよかったのだが、2レプタとも入れた。主イエスは「生きる手立てのすべて」と言われた。1レプタでも、多少の食料は買える。それすら、全てを主にささげたのだ。彼女は、自分のいのちは主に与えられたいのちだから、明日は主にまかせようと決断したのだろう。主イエスは感動して、「だれよりも多くを投げ入れた」と言われた。金額でなく、彼女のささげる心に感動されたのだ。
3. 心を見ているお方
- イエス様は献金者の心を見ていた。おそらく主は、その日、すばらしい献金者が登場することを聖霊に示されていて、弟子たちとともに彼女の献金を見とどけるためにそこにおられたのだろう。
- 彼女は自分が注目されているとは知らなかった。しかし実際は、イエス様が熱い視線を注がれていた。
- 主は今も生きておられるので、天から私たちを見ておられる。私たちの献金も、あるいは隠れたところでする忠実な行いも、すべて見ておられる。そして主への信仰のゆえに良い生き方をするなら、喜んで、「あの人は誰よりも○○した」と天使たちに言われているのだろう。
- たった2レプタでも主を喜ばせることができるのだ。私たちも主を喜ばせる者になりたい。献金は人ではなく神に対してのもの。奉仕も人ではなく神に対してのもの。私たちの人生は、神を喜ばせるための人生なのだとわきまえたい。
PAGE TOP