2021年9月26日 主日礼拝

マルコ 10章17~31節
國分広士牧師

1.永遠のいのちを受け継ぐために欠けていること

  • 主イエスの前にひざまずいて教えを請う人(17)。彼の「永遠のいのちを受け継ぐには」という問いに対し、主イエスも彼をいつくしんで答えた(21)ので、彼は本当にそれまで律法に従って生きてきた上で真面目に尋ねていた。
  • なのに、結局、主イエスの勧めには従わず、悲しみながら立ち去った。彼は「永遠のいのち」のために多くの財産を全て失うことは実行できなかった。財産は自分だけでなく家族やしもべを守る役割もあるので、自分の宗教的熱意のために家族を犠牲にはできないと考えたのかもしれない。
  • 主イエスは彼が立ち去ったのを見て、弟子たちに「富を持つ者が神の国に入るのは難しい」と言われた。捨てるものが多いと処分が大変なのだ。
  • ペテロは「自分たちはすべてを捨てて主イエスに従ってきた」と訴える。ペテロは家族も仕事も捨てて弟子となったし、マタイは取税人を辞めて弟子となった。
  • 彼らに共通するのは、まず主イエスの側から「従ってきなさい」と招かれたこと。彼らは主イエスに従いたかったから自発的に捨てた。そこが金持ちのケースと少し違う。金持ちは主イエスに従いたかったのではなく、永遠のいのちを受け継ぎたかったのだ。

2.捨てるものと受け取るものの違い

  • 29節には捨てるもの、30節には受けるものが列挙されている。
  • 29と30は、ほとんど共通する。違うのは30では「迫害」があることと、「父」がないこと。また捨てた100倍を受け、さらに「永遠のいのち」を受けること。
  • 並行箇所のマタイ19:27-30とルカ18:28-30では、捨てるものしか列挙せず、マタイでは「その100倍を受け」。ルカでは「その何倍も受け」とある。マルコで「父」が省略されている意味は不明だが、大きな意味はないだろう。
  • 大切なのは、主のために捨てるなら、もっと豊かに受けるということ。弟子たちの場合、「主の招き」が明確だったので、主のために捨てるという意識も明確だった。一方、金持ちは、永遠のいのちを受け継ぎたいという自分の願いが先行しているので、「主の招き」が不明確になっていた。私たちはどうか?

3. 神にはどんなことでもできると信じるかどうか

  • 金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しい(25)」という主イエスのことばを聞き、弟子たちは「誰が救われるのか?」と驚いた。
  • 主イエスは驚く弟子たちをじっと見て言った。これから言うことばを、きちんと受け止めなさいという意思表示。その上で「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。(27)」と言う。
  • 「私にはできない」と思うことがある。するべきことができない場合もあるが、するべきでないからそう思う場合もある。金持ちの場合、主イエスから「私に従ってきなさい」と招いたわけではなかった。律法を守ってきたという彼の自負心を砕くため「あなたには欠けていることがある」と諭されたのだ。彼は「私にはできない」と素直に認め、赦しを求めれば、立ち去ることはなかっただろう。
  • 「私にはできない」が「神にはできる」。自分より神を信じ、赦しと助けを求めよう。