2021年9月19日 主日礼拝

マルコ 8章27~35節
國分広士牧師

1.主イエスをだれだと思うのか

  • マルコの福音書は主イエスの姿をドキュメンタリーのように記述し、数々の奇跡のわざや、教えや、身近な弟子たちだけが聞いたつぶやきなどが記している。ご自分がどういう存在なのかを、主イエスは隠さずに表現された。その上で、ご自分を誰だと思っているのかと弟子たちに尋ねたのだ。
  • ペテロは「あなたはキリスト(メシア)です」と答えた(29)。すなわち、旧約聖書で出現が預言されている救い主だと思っていると答えたのだ。これは、世界の造り主だけを神と信じ、さらに主に名をみだりにとなえてはいけないと、神を冒涜する発言に注意しているユダヤ人としては、非常に勇気ある告白。
  • 主イエスはペテロの答えを良しとされたが、それを言わないように戒めた(30)。まだ主イエスのみわざは完成しておらず、完成するまでは、弟子たちは静かに見守るべきなのだ。ペンテコステ後に、主イエスがキリストであることを宣べ伝えることが、主の計画だった(聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして…地の果てまで、わたしの証人となります。使徒1:8)。

2.「キリスト」とは何なのか

  • 「あなたはキリストです」とペテロは勇気ある告白をしたが、主イエスはその告白を深め、キリストとは何かを弟子たちにもっと理解させるために、受難と復活について予告された(31)。これは単に将来の出来事を予知しているということだけでなく、「〜ならない」と、その出来事の持つ意味を語っておられるのだ。
  • 祭司長によって殺されるというのは、重罪人として死刑にされるということ。単に死ぬことと死刑にされることでは意味が違う。キリストは全ての人の罪の身代わりに死ぬのだから死刑でなければならないのだ。バプテスマのヨハネは主イエスを「世の罪を取り除く、神の子羊」(ヨハネ1:29)と呼び、罪のあがないのための生贄となることを予告していた。
  • 三日後によみがえるとは、主の死が仮死状態ではなく、確実な死であることが確認された上で、その死を滅ぼしてよみがえるということ。主はいのちの造り主であり、生き返らせることもできることを明確に示されるのだ。そこまでは、主ご自身のみわざであり、弟子たちは何も付け加えることができない。

3.自分を捨てて、主イエスに従う

  • ペテロは自分の告白が受け入れられたことで自分の思想に自信を強め、受難予告を否定する(ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」マタイ16:22)。彼の理解の中ではキリストが迫害され殺されるとは思えなかったのだ。しかし主イエスは「下がれ、サタン」と非常に厳しく彼を戒めた。彼の思想は一面では有効だったが、捨てるべき思いこみもあったのだ。人は、褒められたり叱られたりしないと正しく歩めない。主の叱責は恵み。
  • こうした弟子たちとの会話後に、群衆も一緒にいる前で、主は「自分を捨てて、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」と呼びかけられた。自分で自分を救おうとするのではなく、自分を主にゆだね、主によって救っていただく道を選ぶように呼びかけたのだ。主にある死者は救われる。